あれもこれも全部たもん【多聞櫓/福岡城07】
前回の続きです。↓
今回はといいますと、前回から日を改めて、再び福岡市中央区に福岡城を訪ねることにしたんです。こんにちは。↓
天神方面からけやき通りを進み、↓
通り沿いに鎮座する「福岡縣護国神社」向いのバス停後ろの↓
池に架かる橋へとやってきました。今回はここからスタート。↓
この池に架かる橋が、福岡城に架かる3つの橋のうちの1つである【追い廻し橋】かと思っていたんですけど!!ですけども↓
書籍『古写真で読み解く福岡城』内の写真を見てみると、どうも様子が違うんです。どういうことか確かめてみたいと思います。↓
まずこの小さな橋を渡って、↓
渡った先の↓
あの辺り、つまり↓
この辺りに、かつて【追い廻し橋】があったということらしく、↓
【追い廻し橋】を渡ったすぐのところには『鉄物櫓』があったそうで↓
じゃあその『鉄物櫓』は現在いったいどこにあるのかというと、
なんと爆発炎上によってとっくの昔になくなってしまっているらしいんです。↓
ちなみに【追い廻し橋】(仮)を渡って左へ進んだところに、【追い廻し門】(搦手門=お城の裏門)があったのだそう。↓
この辺りかな。どうでしょう。↓
一応?なんとなく【追い廻し】関係は明らかになりましたので、このままお城の先へ進んでいくことにします。↓
道の途中に、右へと曲がる坂道がありましたので↓
この坂道を上ってみましょう。↓
今通ってきた道を振り返ると、こんな景色。↓
坂道を少しだけ上ると、今度は右へ向かって道が分かれていますので↓
そのまま右へ向かってみる。↓
すると、見上げたところに立派な櫓を発見。
あれは『多聞櫓』。↓
そばに説明書きがありましたので↓
読んでみたいと思います。↓
ここは「三の丸(多聞櫓・石垣)」。福岡城は別名「舞鶴城」と呼ばれる他に「石城」とも呼ばれています。これは石垣積みの名人である野口佐助一成に由来。また『福岡城』の築城には「名島城」や「鴻臚館」そして「元寇防衛の石材」も使用されていて、積み方は様々。石垣の表情にもそれぞれ違いがあります
福岡城の石垣といえば、こちらの記事もどうぞ。↓
参照はもう少し続きます。↓
築城以降も絶え間なく修復が行われてきました。見事な石垣が残るなかでも、ここ「三の丸」から『多聞櫓』を見上げる景観は印象深いです
こちらは「修復申請書」。修復時にいちいち江戸幕府に届け出ていたということみたい。これって武家諸法度!?↓
葉っぱで見えないけれど、それがまたいいんじゃない。↓
さらに先まで進んでみると↓
「護国神社」前のバス停をちらっと確認することができました。↓
ではさきほどの坂道まで戻って、↓
さらに上っていくことにします。↓
ここから道は、カクッカクッと曲がりくねり↓
『桐木坂御門跡』を抜けると↓
再び分かれ道になっていて、左はこうで↓
右はこう。まずは右から攻めることにします。↓
奥へ進むと、入り口があって↓
中をのぞくと、広場みたいになっている。↓
まだ広場へは入らずそのまま道を進むと、再び曲がりくねったカクカク道になっていて↓
道の脇のところに『水久手御門跡』と書かれた石碑を発見。門の跡。↓
さらに、そばの石垣脇には『生捕櫓跡』と書かれた石碑も。名前が穏やかでないですねえ。↓
では先ほどの広場入り口へと戻って、今度は広場内へ入ってみることにします。↓
どうやらここは、さっき下から見上げていた『多聞櫓』がある場所。いわゆる「南の丸」とよばれるところ。↓
櫓のそばまで近寄ってみることもできました。↓
奥の隅のほうにも櫓が見えるんだけど、↓
あの櫓はなんだろう。↓
そばに案内板がありましたので↓
読んでみるとこんな具合。↓
南丸(二の丸南郭)の『多聞櫓』は江戸時代から残る数少ない建築物の一つです。二層の隅櫓とそれに連なる30間の奥行を持つ平櫓
この建物全体を指して『多聞櫓』ということみたい。また『多聞櫓』隅にある櫓は「隅櫓」と呼ばれているとのこと。参照はもう少し続きます。↓
『多聞櫓』は高く積みあげられた石垣を土台にして築かれ、また「石落」が備えられていることから、防衛のための櫓とも考えられています
そして↓
戦後、大学の学生寮として使われたこともあります。「平櫓」の内部は16の小部屋に別れています
こちらの写真が「平櫓」の内部。↓
以上で『多聞櫓』の見学はおしまいです。まだまだ福岡城散策は続きますが、長くなりましたので、また次回に。
次回は舞鶴公園入口に集合です。よろしくお願いします。↓
【多聞櫓】
福岡市中央区城内