ライバルはどっちも大変【東学問所(修猷館)跡】
先日、福岡市中央区の舞鶴地区を走る「平和台通り」を、風のように駆け抜けていたんです。↓
そしてそのままの勢いで大濠公園もついでに駆け抜けようと思い立ったんです。↓
お濠の手前の明治通りの手前の「平和台」の信号がちょうど赤に変わってしまったので、むむっという気持ちを我慢して青になるのを待っていたら
脇のところに、こんな碑を見つけたのであった。こんにちは。↓
さっそくそばに寄ってみると↓
【東学問所跡】と記してあります。
説明書きを読んでみると↓
福岡藩が天明4年(1784)、藩の子弟教育のため設けた2つの藩校東学問所(修猷館)及び西学問所(甘 館)のうちの一つである東学問所(修猷館)の跡である。ここでは、貝原益軒の流れを汲む竹田定良が館主として迎えられ、多くの人たちを教育しました
続きます。↓
寛政10年(1798)、西学問所が火災にあって廃校になり、その子弟をも収容し、唯一の藩校として武芸も教えました
とありました。(※貝原益軒のお話はこちらでも!↓)
以前のことですが、西学問所(甘棠館)跡(↓)を福岡市中央区の唐人町地区に訪ねたことがあって
その時に、西学問所(甘棠館)の館長は徂徠学派の亀井南冥であり、一方の東学問所の館長は朱子学派の竹田定良であったと知りました。
また館長であった亀井南冥に関しては
生誕地そして↓
お墓も訪ねたことがあります。↓
いずれもたまたまの訪問で
追っかけじゃないですよ!
さて東学問所と西学問所。ライバル関係にあったという両校ですが、寛政異学の禁(朱子学以外は禁止)により亀井南冥は失脚。さらに火災によって西学問所は廃校という結末に。
ちなみに、金印発見時に亀井南冥は『金印弁』を記し、その一方で竹田定良は『金印議』を記していたのだとか。
例えライバル関係であっても、ひとたびバランスが崩れてしまうと、これもう大変です。
そんなことを想いながら、青になった信号を再び駆け抜けて行くのであった。完。
【東学問所(修猷館)跡】
福岡市中央区赤坂1丁目16-14