毒蛇は琵琶で撃退できるケースが有る【玄清法印之墓】
福岡県太宰府市の坂本地区に鎮座する『坂本八幡宮』から
さらに四王寺山の方へと坂道を進むと↓
道の左手に
『オカッテンサン』(↑)がありました。これは前回のお話。
そこからもう少しだけ山へ向かって上っていくと↓
そこには『九州自然歩道(大野城大石垣)』の案内板が立っており↓
案内板の奥の方をちらちらっと見てみたら、↓
なにやら石碑のようなものが立っているのを見つけたのでした。こんにちは。↓
(※後日、坂本口から大野城大石垣を訪ねたお話はこちらで!↓)
せっかくですので、小道をぐるーっと廻って、石碑の方へ近づいてみることにします。↓
奥まで進むと↓
石柱で囲まれたお墓があって↓
そばに案内板がありました。
どうやらこちらは【玄清法印のお墓】とのこと。↓
案内板をざっくり読んでみると、こんな具合。↓
玄清法印は766年に太宰府で生まれました。17歳の時に病で失明。20歳の時、四王寺山で断食をし琵琶で四天王を祈りました。その時に「最澄と会見せよ」というご霊託が。
ちょうど最澄は比叡山に草庵(一乗止観院)を結ぼうとしていましたが、毒蛇に悩まされていました。そこで玄清法印は琵琶を演奏し経典を読誦して毒蛇を退散させたのでした。
最澄はその功を賞し、成就院の号を与えました
そして↓
玄清法印は帰郷後、坂本の地に【成就院】を建立。それから後も、世に病が流行ると、琵琶演奏にて困難を鎮めました。
こうした功績により「法印」の僧位を賜ったのでした
また
「筑前琵琶」は、筑前盲僧のこれらの琵琶を母体として成立しています。福岡市高宮の【成就院】にて厳修されている琵琶法楽は「玄清法流盲僧琵琶」として福岡県無形文化財に指定されています
とのこと。玄清法印は823年に入滅。
しばらくはお墓の場所が判明せず
1834年に四王寺山の焼米が原(↑)に碑が建てられて
それから1901年、この地に【成就院】の跡が発見されたので、ここにお墓が建てられた、ということみたいです。
現在、福岡市南区の高宮地区に【成就院】(↓)があって↓
しばらくのちに訪ねてみたところ↓
院内の説明書きには↓
【成就院】は太宰府の坂本の地から博多蔵本町へ移ったあと高宮へ移転した、との記述がありました。
完。
【玄清法印の墓】
福岡県太宰府市坂本3丁目17