都府樓纔看瓦色  観音寺只聴鐘聲【榎社】

福岡県太宰府市にある『大宰府政庁跡』(↓)から

南へ向かって下ります。↓

御笠川にかかる都府楼橋を渡っても↓

さらにどんどん進みますよ。↓

国道3号線を渡っても、もう少しだけ進みます。↓

そして、筑陽学園高校を通り過ぎた先の右手に鎮座するのが↓

【榎社】です。ここは太宰府天満宮境内の飛地であり、また『大宰府の南館』の跡でもあるとききました。↓

菅原道真公は、かつて左大臣の藤原時平による政略で右大臣の職を解かれ、大宰権帥として大宰府の地へ左遷されたわけですが

それからのち903年に亡くなるまでの2年間を、この南館を居館として謫居されたといわれています。

 

南館はその当時、大変朽ち果てており、また暮らしは困窮し悲惨な状況だったのだそう。

そんな中、失意のうちに亡くなった道真公の亡骸は、牛車に乗せて運ばれました。

 

その道中、牛が座り込んでしまったので、その地に埋葬されることに。その場所が、現在の『太宰府天幡宮』。

では【榎社】境内へお邪魔します。↓

【榎社】は、1023年に大宰大弐の藤原惟憲が、道真の霊を弔うために『浄妙院』を建立したのが始まり。

榎の大樹があったことから、もともとは『榎寺』、そして現在は【榎社】とよばれています。

狛犬。↓

拝殿。↓

こちらは『浄妙尼社』。道真公の世話をしたとされる老婆「浄妙尼」を祀る祠です。↓

彼女は道真公の日々の暮らしをなにかと助け、あるとき食事として差し出した「梅の枝に添えた餅」は『梅が枝餅』の起源とされているとのこと。

9月に行われている「神幸式大祭」はその「浄妙尼」にお礼をするお祭りで↓

道真公の御神霊が「御旅所」である【榎社】に神幸され、一夜を過ごされたあと天満宮本殿へ還御される

ということだそう。↓

また『浄妙尼社』のそばには『紅姫の供養塔』があります。↓

道真公は、大宰府左遷の際に「隈麿」と「紅姫」という二人の子を伴って下りました。↓

が、弟の「隈麿」はといいますと

病で亡くなってしまい、また姉の「紅姫」の行方は

定かでは無いそうです。

そんな悲しい道真公の激動の人生とはうってかわって、【榎社】境内にはゆったりとした空気が流れており平和そのもの。

境内には他にもいくつかの歌碑や石碑なんかがあって↓

境内すぐ目の前には、西鉄大牟田線の電車が走っています。↓

踏切があって↓

その踏切近くには、なにやら石の碑?がいくつか並んでおり↓

こちらは『鶴の墓』というらしく↓

かつて、匠が木で鶴の彫刻を作り、乗ってみるとあれよあれよと中国まで飛んで行ってしまった。唐の人に矢で射られてしまい、なんとか力を振り絞って飛んだけれど、この地で力尽きてしまった

そんな言い伝えがあるんだそうです。飛び梅のお話に似ていますね。なにか関係があるのかもしれませんけど、ないかもしれません。↓

では最後に、道真公が大宰府での暮らしをつづった漢詩集「菅家後集」の中から、『不出門』でお別れすることにしましょう。ごきげんよう。

一從謫居就柴荊 萬死兢々跼蹐情
都府樓纔看瓦色 観音寺只聴鐘聲
中懐好逐孤雲去 外物相逢満月迎
此地雖身無検繋 何為寸歩出門行


【榎社】

福岡県太宰府市朱雀6-18-1