唐津街道(一部)を辿ってみた16【亀井南冥生誕地】

前回の続きです。↓

前回はといいますと、姪浜小学校の裏手へ向かって、かつて九州探題であった渋川尭顕が眠るという『探題塚』を訪ねました。

では今回も元気に辿っていきたいと思います。

 

『唐津街道』を先へ進むと、姪浜小学校西の信号。ここ結構待ち時間長くないですか。

その横断歩道脇に碑があって、↓

その碑には、この先『姪浜住吉神社』が鎮座しているよ、と記してあります。

ようやっと青信号を渡り、そして唐津街道はさらに先へと進むわけですが↓

ちょっと待ってその前に。寄ってみたい場所があるんです。そこでいったん街道を離れて、この辺りを右へと入っていきます。↓

すると川。名柄川。え??あれ?ごめん間違えた。道に迷ったみたい。すかさず来た道を戻ってみたり↓

それから住宅街の路地をウロウロしてみたら、なんとなく到着することができました。↓

それがこちらの、駐車場、兼【亀井南冥生誕地】。

前回か前々回に見かけた案内図にこちらのことが掲載されており、きっと訪ねてみようとばっちりチェックしていたんです。迷ったけど。↓

さて案内図の説明によれば、↓

亀井南冥は志賀島から金印を守る「金印弁」を著した人。黒田藩西学問所「甘棠館」館長。能古博物館には資料有

とのこと。ちなみにですが、ずいぶん前に『甘棠館』(↓)跡地を中央区唐人町に訪ねたお話をしたことがあります。↓

また、亀井南冥が眠るという『浄満寺』(↓)も中央区地行地区に訪ねたことがあります。

そして今回の亀井南冥生誕地である。

さっそく説明書きを読んでみたいと思います。↓

亀井南冥は儒教の徂徠学を学び、福岡藩校の東学問所「修猷館」(朱子学)とともに開設された西学問所「甘とう館」の学長に。この年、金印が発見され、偽物論など様々ありましたが、金印の謎を解明する「金印弁」を発表、金印を守りました

続きます。↓

その後、朱子学が尊ばれるようになり、甘とう館をやめさせられ、甘とう館も火災にあい廃校。南冥昭陽父子は私塾百道社を作り門弟の養成につとめました。孫娘の少琹は今宿に住み漢詩と絵画に高い評価を得ています

といったところで、見学も無事終了。『唐津街道』へ戻ることにします。

おやおや街道沿いに『姪浜住吉神社』の鳥居が。だがしかし!今回はいったん通り過ぎてください。頼む!プリーズ。↓

というのも、実はもう一ヶ所寄りたい場所があるんです。では向かいます。↓

 

こちらも先述の案内図で見かけて、チェックしていた場所なんです。↓

すぐ先のところを右へ曲がっていくと↓

通り右手にお堂があって、こちらが目的地の『旦過だるま堂』。

案内図の説明書きによりますと、↓

興徳寺の寮(旅の僧を宿泊させもてなしたところ。中国の禅宗の開祖達磨大師を祀る。五重石塔や銅造塔婆がある

とのこと。では失礼します。↓

境内にも説明書きがありましたので↓

読んでみます。↓

興徳寺の旦過寮があったところ。堂の中には達磨大師がまつられ、江戸時代につくられた銅製の厨子(仏像・経典をおさめる仏具)が、堂の表には室町時代につくられた五重石塔が

だるま堂。↓

石碑や石像。↓

どもども。↓

さらにこちらには「厨子」のお話が。↓

それはこういう具合。↓

鎌倉時代の創立と伝えるこのだるま堂におさめられている銅造りの厨子は、屋根と塔身をもつ高さ119センチのもので、中には木像の観音坐像が安置されています。厨子の左側面と背面に合わせて12行の銘文

続きます。↓

銘によればこの厨子は、姪浜の石橋紹善が五穀豊穣と家内繁栄を祈って、芦屋鋳物師大田氏の流れを汲む博多の大田喜兵衛兼達に造らせ住吉神社に奉納したもの。その後明治時代の神仏分離のころ、このお堂に移されたと考えられています

あれ五重の石塔は!?どこかに!?あったり!?なかったり!?見落としてたり!?

といったところで、今回はここまで。

現在、福岡市西区の姪浜まで辿り着いています。

さあ次回はいよいよ最終回。『姪浜住吉神社』を訪ねてついにフィナーレ!↓

多大なるご支援ご声援よろしくお願いします。


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【亀井南冥生誕の地】

福岡市西区姪の浜5丁目4-35

【旦過だるま堂】

福岡市西区姪の浜6丁目13-7