天浦城は筑紫氏の城で嶋鎮慶が城主【天浦城跡】
少し前の桜の季節に
福岡県春日市の下白水地区にある『走り井』を訪ねたお話をしました。↓
『走り井』というのは、かつて村人が利用した湧水のことだそうで、今でもその跡が残っており、また現在はポンプでくみ上げられて利用されているのだそうです。
その訪問から月日を経て、こちらも以前訪ねたことのある↓
『奴国の丘歴史資料館』へ再び見学へ行ったんです。↓
そしてなんとはなしに受付に置いてあるパンフレットを見ていたら
ふとこんな説明書きを見つけたのでした。こんにちは。↓
天浦城推定地。『筑前国続風土記』に、戦国時代末期に筑紫氏の城があり、嶋鎮慶がこの城の城主だったと書かれている。れいわ5年の発掘調査時に大溝が発見される。この大溝は天浦城の外堀の一部と推定
筑紫氏のお城の城主が嶋氏!?その辺りの関係性が良くわかりませんが、お城の跡は気になります。
そこでさっそく訪ねてみることにしましたよ、というのが今回のお話です。↓
ではまず『走り井』の案内板が設置してある、「西中入り口」の交差点へ向かうことにします。↓
この通りの角を起点に、案内板の脇を延びる小道を歩いていくわけです。↓
紫陽花の花言葉は「移り気」。
では先へ進みましょう。↓
ちなみに、この辺りで通りを左へ曲がってみる。そして↓
奥まで進んだところには、先述の『走り井』が暗渠へ姿を変えるポイントがあります。
再び通りへ戻ると、↓
通り左手にて工事が行われていますが、この一帯こそがかつての【天浦城(推定)】だった、とパンフレットに記されていました。そしてさらに!
工事現場(城跡)から通りを隔てて向かい(通り右側)を見てください。そこには大きなマンションが建っており↓
そのマンション敷地奥には、『宗葉どんの供養塔(墓)』があるんだよ、ともパンフレットに記されていました。(マンション敷地外から撮った写真です)↓
ところで「宗葉どん」とはいったい!?あらためてパンフレットを見てみると、そこにはこんなお話がありました。↓
干ばつのため年貢の免除を願い出た庄屋の宗葉。願いが聞き入れられたのに、耳が不自由なため勘違い。かぶりを振ったところ無礼打ちに。干ばつの年に火の玉があがることから村人は「宗葉火」とよびました
おや!?このお話聞き覚えがありませんか。そう、大野城市の宮添地区にも、庄屋と火の玉の伝承が残っていました。これって偶然!?
庄屋は亡くなると火の玉になりがち!それはさておき、ここからはぐるり【天浦城跡(推定)】を1周まわってみることにします。↓
通りをしばらく進んだら、この角で左へ曲がる。↓
そこからはゆるやかな下り坂が続いたあと↓
お城の跡とされる左側区域を見てみると、この高低差である。これがお城と外堀の名残なのかな。そう言われるとそんな気も!?この状態はしばらく続き↓
春日西通りを左へ曲がると、今度はゆるやかな上り坂になる。↓
「泉」の交差点で再び左へ曲がって、ぐるり春日横断通り(577号)へ戻ってきました。↓
そのまま真っ直ぐ進めば、スタート地点へお帰りなさいという具合です。↓
こうして一周周ってきましたけれど、お城の跡だよって言われないとさっぱり分からない、そんな難易度の高いお話でした。
(※『奴国の丘歴史資料館』配布パンフレットを参照させていただきました。ありがとうございました)
【天浦城跡】
福岡県春日市下白水北6丁目86