紫陽花の花言葉は移り気【観世音寺01】

先日、福岡県太宰府市の【観世音寺】を訪ねました。

これまでも、太宰府天満宮へ向かう際には幾度となく【観世音寺】の前を通り過ぎてはいたんですけど、きちんと訪問するのは今回が初めて。こんにちは。

まず福岡方面から太宰府天満宮へ向けて政庁通りを進んでいき、そして大宰府政庁跡を過ぎて↓

それからさらに通りを少し進むと↓

左手に『戒壇院』があって↓

そのもう一本隣りのところに【観世音寺】の入り口。↓

入り口そばに説明書きがありましたので↓

読んでみます。↓

1350年前に筑紫で亡くなった母である斉明天皇の追善のため、子の天智天皇が発願し建立されました。玄昉・唐僧鑑真・空海などが滞在しました。境内の金堂・講堂は江戸時代初期の建物で、その周りに古代の建物の礎石が残っています

また↓

宝蔵には、古代九州の仏教文化を代表する重要文化財の数々が伝わります

とのこと。それでは境内へ。↓

ちなみに『戒壇院』はあっちに見えるよ。↓

正面の先に見えるのが【観世音寺】講堂で、手前右手には駐車場があって↓

左手にお屋敷を見ながら奥へ進んでいきます。↓

交差するこの細い道を左へ入っていくと『戒壇院』。のちほど訪ねますよ。↓

さて。ここ【観世音寺】は天台宗の寺院とのこと。ご本尊は「聖観世音菩薩」。↓

かつて九州の寺院の中心であり「府の大寺」とよばれたのだそう。

約80年かけて、天平18年(746)に完成。現在の数倍もの大きさの大寺院だったとされています。

天平宝字5年(761)には観世音寺内に「戒壇(かいだん)」(僧尼として守るべき戒律を授ける場)が設けられ、日本三戒壇の一つに。現在の【戒壇院】は、【観世音寺】とは別の寺院とのこと。

創建時の建物は失われてしまい、現在は江戸時代に再建された講堂と金堂があるのみとなっています。

こちらが講堂で↓

近づいてみたよ。↓

内側もちらっと失礼して。↓

この講堂のすぐそばには、「展磑」(てんがい)という日本最古の石臼があって、その大きさと重さから↓

牛に引かせて、塗料の「朱」を粉末にするために使用したのではなかろうか

と考えられているみたい。↓

境内の左手にあるこちらが金堂。↓

境内は、落ち着いた雰囲気で↓

奥には「観世音寺僧房跡」の案内板。↓

そしてこちらが境内の説明書き。↓

読んでみるとこんな具合。↓

かつては方3町(約330m四方)の寺域を占め、講堂・金堂・五重塔などの建物が整った大寺院であったが、その後火災や大風にあい、創建時の建物は失われています

そして↓

観世音寺絵図には、築地塀で囲まれた内側に中門と講堂を回廊で結び、さらにその内側には西に金堂を、東に五重塔を並べて建物を配置しています。左下には戒壇院も

その絵がこちら。↓(案内板より)

説明書きはもう少し続きます。↓

調査の結果、本堂周辺に残る16個の礎石は創建時のもの。建物は7間(約30m)×4間(約15.4m)。5回の拡張が行われています

そして↓

創建時の仏像はほとんど失われています。宝蔵には平安時代から鎌倉時代につくられた高さ約5mの巨大な仏像を含めて約18体の仏像、狛犬、舞楽面などが収められています。鐘楼に吊るされた梵鐘は京都妙心寺の梵鐘と兄弟鐘とされています

とのこと。

ちなみになんですが。

 

以前、福岡市南区の老司地区に↓

『老司瓦窯跡』(↑)を訪ねたことがあります。↓

【老司瓦窯跡】は全長11mに及ぶ地下式登り窯で、この窯で焼かれた瓦は「老司式古瓦」と呼ばれ、7世紀後半から8世紀初頭にかけて造営された【大宰府観世音寺】の創建瓦に用いられたことが明らかになっている

それでは境内をもう少し進んでみましょう。右手へ行くと「五重塔心礎」があって↓

その先に↓

鐘楼が建っておる。↓

そうです!日本最古の梵鐘!!がここにあるらしい!!!んですけど!!!!そのお話は次回に。↓


【観世音寺】

福岡県太宰府市観世音寺5丁目6-1