加藤司書を訪ねて緑橋を渡る【節信院】
福岡市博多区の御供所町にある【節信院】を訪ねました。
ずいぶん前のことなんですけど【西公園】を訪ねたとき、荒津山の頂近くに【加藤司書】の石碑が建っていて
(→加藤司書は頂のそばで【西公園/加藤司書】)
そこの案内板にこうあったんです。↓
加藤司書は勤王の志士で福岡藩の家老であったけど、藩内の佐幕派の反発にあい、乙丑の獄にて切腹を命じられました。そして今は【節信院】に眠る。
いつか【節信院】を訪ねたいなと思ってたけどすっかり忘れてて、最近ふと思い出したのであった!こんにちは。
さて、御笠川にかかる緑橋を渡り終え↓
ここから右の通りへ入っていきます。「御供所都町通り」という名称だそう。↓
そのまままっすぐ歩いていくと
門があって案内板が出ている。↓
案内板は、先述した西公園にあったものと同じもので、加藤司書についての説明書きでした。↓
加藤司書は幕末の勤王志士で、福岡藩の老中。ロシアの艦隊を引き揚げさせたり三条実美ら五卿を太宰府に迎えたりといった歴史的な働きをしたけれど乙丑の獄で捕えられ切腹を命じられたのでした。
この場所は、ちょうど【節信院】の裏手にあたって↓
そばにあるこちらの門をくぐって↓
つきあたりの角を曲がると↓
【節信院】の表正面に出てきました。こちら【節信院】は、『聖福寺』の塔頭(寺内寺院)なのだそうで↓
ちなみにこの道をさらに進んでいくと、仙厓和尚が余生を過ごしたという『幻住庵』があって、この辺りは【聖福寺】の奥にあたる場所。↓
さて、それでは【節信院】を訪ねてみます。
山門をくぐると、すぐのところに【加藤司書公墓所】の石碑があって↓
その隣りには『子安観世音菩薩』。↓
説明書きには↓
明治28年(1895)の閔妃事件という国際関係の渦中に犠牲となり亡くなられた王妃「閔妃」の霊を慰めるために建立されました。
とありました。
こちらは本堂。↓
【節信院】の開基は、1602年加藤重徳による創立とのこと。その重徳という人物は↓
加藤重徳は有岡城の城主「荒木村重」の家臣でした。黒田官兵衛が有岡城に幽閉されていた時、牢から救出する手助けをしました。その功によって、加藤家は代々、黒田藩の中老職を任されることになりました。
だから、加藤司書も中老職だったってことですか!?また加藤司書がここ【節信院】に眠るのは、加藤家の菩提寺であるからということみたい。
慶応元年(1865)に、乙丑の獄で切腹を命じられた加藤司書が、実際に切腹をしたのが【天福寺】というお寺で↓
その【天福寺】の跡は、大博通り沿いの↓
櫛田神社の鳥居の↓
その鳥居の隣の脇のところ。↓
そこにひっそり石碑があるんです。↓
石碑には↓
萬境山 天福寺跡 黒田藩家老勤王家 加藤司書徳成公 自刃の地
と記述がありました。そして天福寺は現在、福岡市城南区の油山に在るのだそうです。完。
天福寺のお話はこちら!(→いのししが出たら私はもうだめだろう【天福寺】)
【節信院】
福岡市博多区御供所町11-20