博多から肥前の名護屋へ往来する道【太閤道】

前々回、前回と福岡市早良区に『有田遺跡群』を訪ねたお話をしました。

その際、福岡を東西に横断する「壱岐対馬路」と呼ばれる官道を辿ってみたわけですが、

途中の城南区そして早良区の区間には、「太閤道」と呼ばれる道筋と被っている区画があるらしい、そんなお話が書籍『海路12号』の中にあったんです。

でもね、先日「有田遺跡群」を訪ね歩いた際には、この「太閤道」についてきれいさっぱり頭の中から抜け落ちていて。

もうただただあちぃあちぃとぶつぶつ文句を垂れながら、中村大学前をのびる202号を駆け抜けたのでした。

そしてようやっと訪ね終え、家に帰ってアイスを食べながら、あらためて道中の思い出写真を眺めるにつれ、だんだん「太閤道」のことが気になってきちゃったんですけど。

そこで、「太閤道」とはいったいどんなルートだったのか、いまいちど確かめてみたいと思います。

 

まずは書籍『海路12号』から参照させていただきます(ありがとうございます)。↓

途中七隈緑地のところは切通しになっている。原小東交差点と原交差点間は国道202号と一致しているが、その他は古代官道のほうが一直線で、並行する202号のほうが曲っている。この道は「太閤道」とも呼ばれ、戦国時代に博多から朝鮮出兵の兵站基地だった名護屋城などに急行する道としても使われたものである。小田部のあたりはやや高台になった早良平野中央の重要地で、近くに早良郡家官衙跡が発掘されている

ここで分かるのは、「太閤道」の一部区間は202号と一致しているということ。

それから書籍『福岡歴史探訪 南区・城南区 / 柳猛直』にも太閤道に関する記述がありましたので、

こちらからも参照させていただきます(ありがとうございます)。

p187 「生の松原より山門村を過ぎ姪浜の南を経、七隈、田島の北を通る道あり。秀吉公、肥前名護屋へ往来したまふ時この道を御通りありという。この故に今に至り太閤道という(筑前国続風土記)」。豊臣秀吉が朝鮮役の時、博多から本陣が置かれている肥前の名護屋へ往来した道で六本松から樋井川を渡って中村大学の裏手を通る旧道がそれだといわれている。

なるほど。六本松駅前を通り樋井川を渡り中村大学の裏手を通る道が太閤道であると。中村大学近辺が「太閤道」のポイントのようです。

さらにとどめは!早良区のHP内の記事「福岡よかとこ探検隊」に詳細なルートが記されていましたので、こちらも参考にさせていただきました(ありがとうございます)!

といったところで。後日あらためて。「太閤道」を辿ってみましたので、その様子をみんなで見てみても、いいともー。

では中村学園手前の交番からスタートします。この裏を「太閤道」は通ると。

裏を通るも、すぐに「城南学園通り」にぶつかるため、

結局は元の道へ迂回して、

今度は中村学園大学裏手へと進みます。↓

中村大学裏手通りへ合流したあとは、

しばらく真っ直ぐ。↓

「荒江逢坂」の信号のところまでが、‘城南区’の「太閤道」であり、

信号を渡った先からのびる道が、‘早良区’の「太閤道」になるとのこと。

そして引き続きまっすぐ進むと、再び202号に合流することになります。

そこから202号を少し進んだ先には、原交差点の三叉路がおまちかね。

ここを、前回「有田遺跡群」を訪ねたとき同様に、左の小道へ進んでいくのが、秀吉の道。

といったところで「太閤道」のお話はこれにておしまいです。地図で見るとこんな具合。↓

ちなみに秀吉公といえば、福岡県糟屋郡新宮町に「太閤水」という史跡があって、

こちらは、↓

天正15年(1587)、九州を平定した豊臣秀吉が、大阪への帰路ここで馬を休め自ら清水を汲んで飲んだところ

とありました。また「太閤道」に関しては、唐津街道の一部を辿った際に、

書籍「街道と宿場町/アクロス福岡/海鳥社」からこんなお話を参照させていただきました。

小倉から唐津城下へ至る街道が唐津街道。古代から通じていた要路である。福岡城から小倉は参勤交代の道として、福岡城から唐津城は長崎警備のために利用されました。比較的静かな街道で、街道の前身は朝鮮侵略の通路に利用された豊臣秀吉による太閤道

やや道筋にブレはあるものの、かつての官道が太閤道であり唐津街道ってこと!?むむ。

謎を残したまま、終わりたいと思います。完。


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【有田遺跡群(有田西公園)】

福岡市早良区有田1丁目40