唐津街道(一部)を辿ってみた05【太閤水】

前回の続きです。↓

前回、唐津街道沿いに見つけた矢印に導かれ、青柳町にある【色姫の墓】を訪ねました。

その際、私は怪しいものではないですよと、周辺住民のかたにこっそり念を送っていたのだった。こんにちは。

では続きます。再び504号へ。↓

とにかくしばらく真っ直ぐ、静かな郊外の道を進んでいきます。

小竹口の交差点。↓

ゆるやかな坂道が続きます。↓

これはなんだろう。空港の手荷物検査みたい。

そしてゆるやかな下り坂。↓

の先に!↓

【太閤水】である。↓

説明書きがありましたので↓

読んでみると↓

天正15年(1587)、九州を平定した豊臣秀吉が、大阪への帰路ここで馬を休め自ら清水を汲んで飲んだところ。島津義久に対抗し孤軍奮闘していた立花宗茂(道雪の養子)を助けるため、秀吉は20万の大軍を率いて九州へ

ちなみに以前の記事でも参照しましたが

唐津街道の前身は朝鮮侵略の通路に利用された豊臣秀吉による太閤道

ということなんだそうです。

続きます。↓

秀吉を追ってきた堺の茶人「津田宗及」は三代の里に滞在。茶をたてる水を求めて掘り当てたのがこちらの湧き水。秀吉は喜び「宗及水」と名付けました

その後↓

京都大徳寺の江月和尚(宗及の子)が立ち寄った際、「飯銅水」と改められました。後世に井戸場が造られ「太閤水」とよぶようになりました

なんで息子は、秀吉が付けた名前を、あとから来て変えちゃうのか。父(宗及)はその時どんな気持ちだったのか。勝手になにすんだと。ふざけんなよと。そう思ったかもしれません。

 

正面から↓

そばに近寄って見てみます。↓

隣りには巨石のお堂。↓


 
では先へ進みましょう。「祥雲寺」。↓

千田の交差点を過ぎると↓

お堂っぽい建物が見えてきました。↓

説明書きがありましたので↓

読んでみますね。↓

夜泣き観音には、戦国時代の立花城落城にまつわる昔話が伝わっています。1568年、城主立花鑑載(あきとし)の妻と子どもは城を脱出。追っ手から逃れるため橋の下に隠れました

しかし!↓

子どもが泣きやまず、これまでかとあきらめ観音経を唱えると、子どもは泣きやみ、追っ手から逃れること出来ました。ちなみに、逆の結果に終わった悲話としての昔話も伝わっているとか。いずれにせよ、子を想う母の気持ちを表した観音様としてまつられ、子どもの夜泣きを治してくれるのでこう呼ばれています

辺りはこんな風景。↓

失礼します。↓

この504号に沿ってさらに進めば、大きな大きな3号線に合流することになります。

ちなみに、唐津街道に関して詳細に記されているインターネットサイトによれば、このまま3号線を横切って通りの向こう側へ一度渡り、それから少し先でまた戻ってくるのが

唐津街道の本当の姿っぽいんです。でも、ここはほら。まあまあどうもどうも。いやいや。おっとっとっと。である。

つまり、辿った時には知らなくて

あとで確認してから知ったというわけです。

さて、今回は福岡県糟屋郡新宮町まで無事に辿り着きました。お疲れ様でした。

続きはまた次回に!↓


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【太閤水】

福岡県糟屋郡新宮町三代354