鴻臚寺にならい鴻臚館と名を改める【官道13(完)】

前回の続きです。

前回、官道の西門ルートを辿り、ようやく『鴻臚館』跡にて、『平和台球場』の砂埃がそっと舞うのを見つめていたのだった。

では、『鴻臚館資料館』を見学して、一連の『官道話』を終わらせようと思います。いざ入館。

館内はこんな具合。ぐるり一周廻って見学するようになっています。↓

以前も訪ねてあれこれお話をしましたが、あらためましてこんにちはです。こんにちは。

さて館内の壁に『鴻臚館』に関するこんな説明書きが。

読んでみるとこうありました。

鴻臚館は古代の外交施設であり、平安時代には福岡(筑紫)、大阪(難波)、京都(平安京)の3ヶ所に置かれました。跡が確かめられたのは福岡の鴻臚館だけ。7世紀後半から11世紀なかばまで存続。飛鳥・奈良時代には筑紫館とよばれ、平安時代には鴻臚寺にならい鴻臚館とその名を改めました

続きます。↓

奈良・平安時代初めころは中国・新羅の外交使節をもてなしたり、留学生の宿泊地として利用。平安時代中ごろからは交易の拠点施設に

とのこと。またこちらの説明書きには、古代官道推定図と、↓

官道のお話が。↓

西門を抜けるルートは大宰府政庁へは遠回りになりますが、日本の国威を示すための儀礼的な効果を狙っていたと考えられます

そういえば『杉塚廃寺跡』にそんなお話があった気が。↓

続きます。↓

水城の西門を抜けた官道は、8世紀前半には大橋駅付近から警固断層に沿うように鴻臚館東門に向ってのびていたと推測されており、幅9m、距離は16kmと考えられています

もう少し続きます。↓

9世紀後半以降、鴻臚館が外交から交易の場に役割が変化しますが、そのころには既に西門ルートは利用されなくなったと考えられています。鴻臚館と大宰府を結ぶ西門ルートは外交使節と密接な関係にあったことを示すものと言える

辿ってきた西門ルートのお話がありました。その大宰府と鴻臚館の関係については、こちらの説明書き。↓

読んでみると、↓

大宰府の組織は大宰帥を長官とし、「政所」「公文所」「蔵司」などの部署が置かれ、50人ほどの役人が従事。鴻臚館は大宰府の出先施設で、職掌上は「番客所」の属しました

と記してありました。それから『鴻臚館』の前身である『筑紫館』については

こんな記述。↓

飛鳥時代から平安時代初めまでは「筑紫館」と呼ばれました。筑紫館が初めて資料にあわられるのは688年。筑紫館の造営は唐と新羅の連合軍と百済を救済した倭国(日本)が戦った白村江の戦い(663年)の後からまもない時期に、大宰府の整備とともに進められたと考えられます

とのこと。といったところで、そろそろ『鴻臚館資料館』見学はおしまいです。それはつまり、

水城をのびる2つの官道のお話もおしまい。ご清聴ありがとうございました。

始めから読むにはこちらから。↓

【鴻臚館展示館】

福岡市中央区城内1