縁台に赤い布、赤い野点傘を差してある事も【新茶屋】
先日、福岡市博多区にある『常盤館跡』を訪ねたお話をしました。
こちらは元々、江戸時代に『若松屋』と呼ばれた水茶屋で、明治時代に『常盤館』と屋号を変えたもの。
かつて高杉晋作は、ここ『若松屋(常盤館)』に身を潜めつつ、石堂橋の関所を越えて、
柳町『梅ヶ枝屋』へ繰り出したとききました。
(※若松屋a.k.a常盤館については書籍『維新秘話福岡/浦辺登著』を参考にさせていただきました)
その『常盤館跡』には現在、小さな石碑が立っており、実際に訪ねてみると、それはもう難易度高い感じで佇んでいたんです。
かつての高杉晋作のように、今度は石碑が身を潜めているといった感じ。これ概念です。
『常盤館跡』へは書籍を参考にして訪ねたわけですが、それでも見つけた時の喜びは100万点。
訪ね終えて帰宅して、感動胸いっぱい気分でグーグルマップを開き、そしてあらためて場所を確認していたら、あれええ。おや、おやおや。
通りの向かいに『新茶屋』とか書いてあるじゃんか!?なんなのこれ!?いったいなにが起こってるんです!?
っていうか『常盤館跡』を訪ねた時に、その辺りも歩いた筈なんだけど!そんなのあったっけ。さっぱり気が付きませんでした。こちらも難易度高そうです。
これは訪ねるしか!というわけであらためて向かってみたってお話を今からしたいと思います。こんにちは。
では再出発。
こちらが御笠川。
そしてその前を走る3号線。向かって右側のガソリンスタンド並びに『常盤館跡』があって、今回は左側のお話となります。↓
で、横断歩道を渡りましたよと。渡っちゃいましたが?と。
渡った先で右を見やると、ちゃんと『常盤館跡』のあるマンションをちらり確認することが出来て、↓
一方、この柵の一角に身をひそめるのが、高杉晋作だ!
っていうのは冗談で、こちらに佇むのが今回の目的地『新茶屋跡』の碑なんです。↓
向こうの奥には御笠川がたゆたゆ流れており、↓
とりあえず石碑の裏を見てみたら、↓
そこにはこんな一文が。↓
文政四年。奥村玉蘭筆。筑紫名所??(図会)による
ん?どういうこと?奥村玉蘭?誰!?そこでさっそくあれこれ調べてみると、
書籍『古地図の中の福岡・博多/宮崎克則編』にこんな一節がありましたので、
参照させていただきます(ありがとうございます)。↓
新茶屋。元文(1736-41)頃に茶店ができ、鮮魚や珍菓を並べ、美酒を飲むことができるようになった。奥村玉蘭『名所図会』には、「いつも三味線の音。酒を飲み風流に遊ぶ。酒徒はうるさく賑やかに騒ぐことは他にはないだろう」
とのこと。ここは、今で言う「やんちゃ系居酒屋」といった趣きなのかな!?
また奥村玉蘭に関して、『福岡市博物館HP』に説明書きがありましたので、一部参照させていただきます(ありがとうございます)。↓
博多中島町に生まれた奥村玉蘭。亀井南冥に学ぶ。聖福寺の仙厓和尚や絵師の斉藤秋圃らと交流。亀井派援助をもとに家業をゆずり太宰府の草庵に住む
(※亀井南冥についてはこちらの記事も!↓)
(※斉藤秋圃についてはこちらの記事も!↓)
続きます。『筑前名所図会』についてはこんな具合。↓
諸国の名所図会に触発された玉蘭は絵を学び、筑前の名所旧跡、神話、歴史など貝原益軒『筑前国続風土記』を参考に解説し絵図を描いたのが『筑前名所図会』。亀井派との関わりで刊行されなかった
とありました。そしてその図会を基に設置されたのがこちらの石碑、ということみたい。それはそうと、ちょっと待って。
そもそもの『茶屋』とはなんぞやと。知らないんですが!さっそく調べてみると、どうやらこういうことみたい。wikipediaからの参照です。↓
客に茶を提供する商売や店、および近世にそれから派生した茶や食べ物や休息場所を提供する店、またさらにそこから分化派生し飲食に加えて遊興を提供した店
続きます。↓
江戸時代には宿場町に水茶屋も広まり女性が給仕した。街道筋の宿場や峠にある茶屋は「水茶屋」「掛茶屋」「御茶屋」と呼ばれた。店先では、縁台に緋毛氈や赤い布を掛け、赤い野点傘を差してある事も多い
ふーん。といったところで、新茶屋のお話はおしまいです。
ご清聴ありがとうございました。
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【新茶屋跡】
福岡市博多区千代3丁目2