思水園と水城院で案外賑やか!?【水城院再訪問02】
前回の続きです。
ふと太宰府市にある【水城院(すいじょういん)】のことが気になって、先日再訪問してみました、
というお話の途中でしたね!?こんにちは。
では続きます。
【水城院】のある『水城ゆめ広場』へ入り、
それから、森の中にある案内板を確認すると
そこには『思水園』の在りし日の姿が。
ちなみに『思水園』については、以前の訪問時にネットで調べていて、そこから参照してみたいと思います。↓
由布惟重(ゆふこれしげ)という人が思水園という施設を造りました。売店やビアホールがあって、釣りや料理が楽しめる場所でした。昭和9年辺りに閉園しました。
閉園したのちには、米軍相手のダンスホールが開園していた時代もあったのだそうです
とのこと。(※思水園を訪ねた以前の記事はこちら!↓)
また、今現在向かっている【水城院】というのは、以前の自記事によりますと、↓
大正13年(1924)に、高鍋日統という僧侶が中心となって「大陸発展、海外雄飛、大亜親交の道場」とする目的により建立された寺院の跡。大正15(1926)年、朝鮮総督斉藤実により、朝鮮全羅北道出土の梵鐘の寄贈を受ける。戦後しばらく活動していたが、その後廃寺に
とあって、大正13年から戦後の昭和20年(1945)辺りまでが活動期間と考えられます。
つまり『思水園』と【水城院】は共に存在していた期間があるみたい。人っ子一人いないこの界隈も、かつては賑やかだった!?んですねえ。
さて、森の小道は途中で通行止めに。ここで右か左か選びなさいと言っている。これはどういうことかというと、
左へ進めば『思水園跡』かつ外堀側で、右へ進めば『水城院跡』かつ内堀側であるという案内。↓
水城の土塁には博多側に外堀があり、また太宰府側には内堀がありました。かつて外堀に水を貯め、木樋と呼ばれる導水管で内堀へ水を供給していたのだそうです。
それでは先へ進みましょう。分かれ道で右を選ぶと再び説明書きがあって、
図を見てみるとこういう具合。
また、こちらは先ほどの導水管の説明。↓
そこからすぐそばの小さな丘の上にあるのが、
目的地の【水城院】。↓
案内には『熊田勇吉碑』『古渓大明神』という記述も見えますが、
熊田勇吉碑は多分お墓のことを指しており、前回記事の階段の先にたしかお墓がありました。また『古渓大明神』というのは、以前訪ねた博多区奈良屋町の古渓和尚と関係あるっぽいけど、本当のところは良く分かりません。↓
それはさておき、階段を上って再訪問といきましょう。↓
入り口には石柱。↓
左に「国家安全」右に「天下泰平」。↓
また柱の裏側はそれぞれ「昭和十一年十月吉辰」「博多瓦町行者山本妙山会信者」とありました。
では満を持して境内へ。もちろん、前回危惧していたようなおしゃれカフェなし!古着屋も雑貨屋も森ガールもいません!ちょっぴり残念。
あるのはこちらの案内と、
なにかしらの石の跡ばかり。↓
少し歩いてみたら、森の小道は「小池」へとつながっており
さらに森の奥へ向かってみたけど、案内にあった『古渓大明神』は見つからず。
といったところで、【水城院】の再訪問はおしまい。↓
それから西門跡を過ぎ、
かつての官道を辿って福岡まで歩いて戻ろうと思ったけど↓
そうじゃないなって気もしたので、結局電車で帰りました。
ではまたどこかで。ありがとうございました。終わり。
【水城院跡】
福岡県太宰府市吉松3丁目17-1