忠之公の囲碁の相手をすることができない【香正寺】
福岡市中央区の警固地区にある【香正寺】を訪ねましたので、今回はそのお話です。
福岡市中央区の薬院六つ角から↓
国体道路へのびる「上人橋通り」をしばらく進むと↓
向かって左手に大きな山門が見えてきます。↓
こちらが今回の目的地である【長光山香正寺】。日蓮宗のお寺だそう。↓
山門そばに案内板がありましたので
読んでみると↓
開山は日延上人。日延上人は、徳川2代将軍秀忠の命に背いたことで九州へ下ることになりました。福岡藩藩主黒田忠之の厚遇を得て、当地に9800坪もの寺地を賜る。上級藩士の菩提寺として隆盛し、今日に至る
とのこと。
また案内板には「上人橋」の由来も書いてあって、それはこんな具合↓
寛永年間、福岡城と薬院村(現警固1丁目)の間には小川がありました。日延上人は藩主忠之の囲碁の相手を務めていました
ある時、大雨で川が増水し↓
川を渡ることができない上人は登城できず、忠之公の囲碁の相手をすることができませんでした。
それを聞いた忠之公はさっそく橋をかけたのであった。これが【上人橋】
その「上人橋」が『上人橋通り』の名前の由来ということみたい。
さて、それからのち↓
昭和10年代頃に川は埋め立てられ、現在の国体道路になりました
ちなみにお寺の庭園内には↓
忠之公の揮毫である「上人橋」と刻まれた石の橋柱が移されています
それがこちらで↓
また日延上人について調べてみますと↓
日延上人は朝鮮の高麗国王の王子で、4才のとき、朝鮮に出兵した肥後の加藤清正に連れられて日本に渡って来ました。
福岡藩藩主忠之と義姉の長光院の帰依を得ました
そして
宗像の禅宗の廃寺『立国山香正寺』の名前を受けて、寛永9年(1632)日蓮宗に改め【長光山香正寺】を開山。
山号は、長光院の名に由来します
山門の左には「持国天王」。↓
右には「多聞天王」。↓
本堂。↓
額「長光山」。↓
「長栄堂」のそばには↓
黒田官兵衛の弟である黒田直之のお墓。↓
こちらのお墓は↓
右から「日延上人」「長光院殿」。↓
そして「大隈言道のお墓」。
幕末の歌人で知られる大隈言道は↓
野村望東尼の先生としても知られています。
こんなにも多彩で多才な人々が集まり眠る【香正寺】。
その賑やかさは、ヤングが集う【上人橋通り】に負けていない!!↓
囲碁だけに!!かかってませんけど!?橋だけに!!かかってる。続く!↓
【香正寺】
福岡市中央区警固1-5-32