水城ゆめ広場にあなたは来ない03【水城07】

前回の続きです。

前回、水城跡の西の端を探すべく【水城ゆめ広場】の森の中へ入っていくと、『水城院』なる怪しげな場所に迷い込んだのだった。こんにちは。

今回はまず、その気になる【水城院】を訪ねてみたいと思います。↓

見ての通りの急な階段を上っていくと、上りきったところに門のようなオブジェが。ちっす。お邪魔します!!↓

振り返るとこんな具合。奥の方にちらっと見えているのが、これから向かう水城跡の西の端(多分)。↓

石門を抜けると辺りは藪って感じで、もうなにがなんだか良く分からないんだけど↓

名前に「院」ってついているくらいだから、きっとお寺の跡。↓

石碑というか石柱が立っていて↓

それ以外はなんとも荒々しい感じ。ワイルド。ワイルドォ。↓

さて太宰府市文化財情報のHP(リンク切れ)を参照してみますと(引用します)↓

門には「天下泰平 国家安全」と記されている。また石柱には「三界万霊」。水城院(すいじょういん)という廃寺跡で、大正13年(1924)に、高鍋日統という僧侶が中心となって「大陸発展、海外雄飛、大亜親交の道場」とする目的により建立された寺院の跡。大正15(1926)年、朝鮮総督斉藤実により、朝鮮全羅北道出土の梵鐘の寄贈を受ける。戦後しばらく活動していたが、その後廃寺に

この斉藤実という人物は↓

第30代内閣総理大臣を務め、また「2.26事件」で陸軍青年将校に殺害されました

とのこと。(→wikipedia斉藤実より)

 

なんだか分かったような分からないような気持ちで「院」を後にして

(※のちに再び水城院を訪ねたお話はこちらで!↓)

そこからさらに道なりに歩いていくと↓

森の脇に民家が立ち並ぶ通りがあって↓

さっきも言ったんだけど、地図と照らし合わせた感じでは、おそらくここが水城跡(=土塁)の西の端だと思うんですが。多分。

ちなみにこの細い通りをそのまま歩いていくと↓

西門跡に辿り着くというふうになっています。ということはつまり↓

『水城大堤跡』を東の端から西の端まで、ようやく辿り終えることが出来ました!でも感動するのはまだ早い!忘れていることがあるでしょう。↓

そうですご名答。「思水園跡・推定望楼」を最後に訪ねてから、この「大水城巡り旅(夏)」を〆たいと思います。↓

前回の分かれ道を左へ向かって↓

上っていくと↓

この辺りが「思水園跡・推定望楼」らしいんですけど↓

意味が分からない。分かるんだけど分からない。望楼は分かるんです。西門そばの土塁には見張り台として望楼があっただろうというお話がありましたので。↓

じゃあ「思水園」っていったいなに?誰?

広場入り口の説明書きには↓

昭和の時代に、この地に庭園が開かれたと記してあって↓

当時の写真もありました。↓

ということは、もともと望楼があったであろう場所に、思水園という施設が造られた、ということになるのかな。

思水園についてネットで調べてみると(参照/引用)↓

由布惟重(ゆふこれしげ)という人が思水園という施設を造りました。売店やビアホールがあって、釣りや料理が楽しめる場所でした。昭和9年辺りに閉園しました

閉園したのちには、米軍相手のダンスホールが開園していた時代もあったのだそうです。この地を選ぶ!?想像できないけど、逆に斬新で良いのかな。

そして例えばこういうのとか↓

こういう石碑などは、その当時の名残だったりするのだろうか。よく分かりませんのでスルーなかったことにします。↓

そんなこんなで「思水園跡・推定望楼跡」の見学も済みましたので、いよいよ水城跡を辿る大冒険も終わりの時間。

かつての防衛施設の一部である【大水城跡】、つまり全長約1.2キロの土塁を無事に辿ることができてよかった。おめでとうみんなと私。特に私。ほぼ私。

かつて唐・新羅の来襲に備えて造られた防衛施設。そして元寇の時代にも、元軍の来襲に備えて準備された防衛施設。

そして、どちらの時代においても全く使われることがなかったという奇跡の防衛施設。

数回に渡って訪ねてきましたけど、ここで一区切りとなります。読んでいただきありがとうございました。


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【水城ゆめ広場】

福岡県大野城市下大利5丁目12