加藤司書は荒津山の頂で【西公園/加藤司書】

前回の続きです。

数回にわたってお届けしてきた福岡市中央区『西公園』探訪記もいよいよ最終回です。

これまで【平野國臣像】(→時代の先を駆け抜け過ぎて【西公園/平野國臣像】)そして↓

【立帰天満宮】(→無事に帰ってきて欲しいとき【西公園/立帰天満宮】)↓

【光雲神社】(→鶴はわりとワイルドに鳴く【西公園/光雲神社】)さらに↓

【荒津の崎】(→なんとロマンチックな所。【西公園/荒津の崎】)を訪ね↓

そして今回はといいますと、ここ西公園a.k.a「荒津山」の頂上まで上って、最終回をバッチリ〆たいと思います。



まずは『中央展望広場』へ向かうことに。↓

これなに!?なにこれ!?荒津の崎だから、遣唐使船をモチーフにしました?そこにあずま屋的なのをドッキングしました?↓

そんな広場の先から見える景色がこちら。↓

今屋のハンバーガー。↓

広場の向かいには、荒津山の頂上へつながる入り口があって↓

いこいの広場「荒津の丘」の石碑が立っている。↓

階段を上った先には、橋が架かっていて↓

さっそく渡ってみるとそこには石灯籠や↓

石碑なんかもあって↓

こちらには『加藤司書公』と記してあります。「銅像」の文字はギリ見える。↓

そばに立つ案内板と↓

石碑を一緒に参照してみると↓

こんな具合でした。↓

加藤司書公は加藤家の家督を継いで中老職となります。先祖が黒田官兵衛を助けたことから、代々中老職に就いています。

24歳の時には

ロシア海軍プチャーチンが来航するも退けました。また元治元年(1864)に幕府が長州を討とうとした際に西郷隆盛とともに幕府の兵を解体させました。

そして

黒田藩の万一の場合に備えて、藩主のために犬鳴の別館を急いだけれど、この事を佐幕派に使われて反逆の罪に問われたのです。慶応元年(1865)に、乙丑の獄を命じられ36歳で生涯を終えたのでした。

「平野國臣」そして「加藤司書」という二人の勤王の志士の像と石碑が、ここ西公園にある。

でも黒田藩は基本的に佐幕で、光雲神社は黒田藩の神社でしょう。どういうことなんだろう。私は分かりません。ごめんね。

また、この地にはかつて「加藤司書」の銅像もあったのだけれど、戦時中に供出されてしまったのだそうです。
(→加藤司書を訪ねて緑橋を渡る【節信院】

さらにここから少し上れば↓

ここが荒津山の頂でござる。↓

読んでみると↓

標高48メートル。明治14年(1881)「荒津山公園」の名称で開園。その後「西公園」へ。

今度は桜の季節に来てみたいな。そのときまでしばらく、ごきげんよう。


【西公園/荒津山の頂】

福岡市中央区西公園13