古墳再使用是平安人的持続可能精神【陣の尾1号墳】

先日、一度訪ねたことのある『太宰府市文化ふれあい館』を再訪問しようと思い立ち

太宰府市の国分寺前交差点からのびる、ゆるやかな坂道を上っていたのであった。こんにちは。

その坂の途中に案内が出ていたので、緊急でチェックしてみると、どうやら左へ行けば『国分尼寺(跡)』があるみたい。

これまで一度も訪ねたことありませんし、ちょっと寄ってみることにします。

左へ進むとこちらにも案内があって、そこには、『国分尼寺』はすぐそこだし右の坂を上った先には『陣の尾古墳』もあるよ、と記してある。

そこでまずは『国分尼寺』へ向かいます。

そばに説明書きが立っていましたので

読んでみると↓

天平13年(741)、聖武天皇は鎮護国家、五穀豊穣を祈るため、諸国に国分寺、国分尼寺建立を命じました。尼寺は正式名称を『法華滅罪之寺』といい尼僧10人と規定された

続きます。↓

ここは筑前国の国分尼寺があった場所と伝えられるが、今は田んぼの中に礎石が1個残るのみ。なお(筑前)国分寺は東300mのところにある

とのこと。(※『国分寺』を訪ねたお話はこちらで!↓)

また文中の「礎石」というのは、wikipediaから引用しますと↓

建造物の基礎にあって柱などを支える石のこと。礎石を用いた礎石建物は古代中国や朝鮮半島にみられ、日本には仏教とともに伝来したとされている。法隆寺金堂にも礎石が用いられている。西洋建築の普及により次第に少なくなった

とありました。階段を上ってみると一面に田んぼが広がっており

この田んぼのどこかに礎石があるというわけです。

それでは【国分尼寺】に別れを告げて、次に【陣の尾古墳】を訪ねてみます。

案内のあった先ほどの坂道を少しだけ上ると、すぐのところに古墳が見えてきました。

『旧小字 陣の尾』↓

遊ばないでください!!頼む!!↓

古墳そばに説明書きがあって

読んでみると↓

陣の尾古墳群は四王寺山から南西に延びる丘陵に築造された古墳群。円墳、方墳など4基確認されています。この1号墳は、昭和56年、国分小学校建設に伴って調査された直径12m前後の円墳。石室は南側に開口する複式構造の横穴式石室です。石室は全長6.6m、奥室は長さ2.3m、幅2m、高さ約2m

続きます。↓

前室は長さ1.4m、幅1.3m。奥室は盗掘などで荒らされ副葬品はほとんど残っていませんでしたが、前室や羨道から耳環や鉄鏃などが出土しました

文中の「鉄鏃」というのは、鉄製の鏃(やじり)のことだそう。説明書きはもう少し続きます。↓

それらと一緒に出土した須恵器から、古墳は6世紀末頃に築造されたと考えられます。市内に残る数少ない古墳です

また写真に添えられた解説によると

墳丘は削られてほとんど残っていないだとか

石室は平安時代にお墓として再使用されたと推定される、というお話もありました。

 

こちら内部の様子。↓

誰かいたりして、って思いがち。↓

ではそろそろ、当初の目的地【太宰府市ふれあい館】へ向かいますが

続きは次回に。↓

【筑前国分尼寺跡】

福岡県太宰府市国分2丁目7-22

【陣の尾1号墳】

福岡県太宰府市国分2丁目10