川を辿っていくと伊崎港へと辿り着くじゃん【黒門川】

先日、福岡市中央区の大濠公園界隈までやってきましたので、ついでに辺りをぶらぶら散策していたんです。

そしてちょうど黒門川に架かる黒門橋を渡っていたところ、

以前訪ねた【簗所】のことを、ビビッとっていうか、こう、ピカーンって感じで思い出したのでした。こんにちは。

思い出したのはいいんだけど、ところで【簗所】ってなんだったっけ。そんな方のために、以前の当該記事を読み返してみるとこうありました。↓

川の流れをせき止め、魚を生け捕る仕掛けをした【簗所】。海から濠伝いに敵が入ってくるのを防ぐ目的もありました

その川というのがこちらの黒門川で、かつて黒門川を辿って【簗所】を訪ねてみたお話をしたことがあるというわけです。

その時には道すがらにあった案内板を読んだばかりでもうそれっきり。川の行く末を最後まで見ることなくそのまま引き返してしまったのでした。

そこで今回、この黒門川を辿れるところまで辿ってみようじゃん?というお話をしたいと思います。ではスタート。

まず黒門橋から明治通りを渡ります。

すると、いつも気になるこのオブジェが目の前に。結局これってなんなんです?西取入門(黒門)的作品!?↓

(※黒門についてのお話はこちらでも!↓)

そのオブジェそばに「唐人町」に関する説明書きがありましたので、↓

まずは読んでみたいと思います。↓

江戸時代には城下を守るための下級武士の屋敷地が置かれ旧跡が残っています。唐人町商店街も商売をしていた町屋が起源と言われます

とのこと。

では、黒門川通りに沿って黒門川を辿っていきます。この地図でいうところの、赤い線の通りに歩いていきますよ。↓

唐人町商店街入り口。

以前唐津街道を辿った時には、

あちらの小路(小倉方面)から続く唐津街道の道筋を歩き、そのまま商店街を駆け抜けました。↓

では先へ進みます。↓

通りには小川っていうんですか。そういうのがちろちろ流れています。

クリスマスも近い?↓

左には当仁小学校。↓

石には「昭和2年3月」と記されている。

え待って?誰?

そばに説明書きがありましたので↓

読んでみるとこうありました。↓

せせらぎがっぱ。3匹の親子の河童は昭和63年、黒門川通りを整備するときに設置されました。お父さん河童は徳利を持ちお母さん河童は魚を持っています。この地方には昔から地行の「河童の松物語」があり、伊崎にいた酒好きの漁師嘉兵衛と酒好き河童のお話がモチーフとなっています

だそうです。

しばらくすると、通り向かい右側に、かつて訪ねた【簗所】がお目見え。↓

さっそく横断歩道を渡ってそばへ寄りますよ。

ここまで暗渠だった黒門川がひょっこり顔をのぞかせています。

こちらの説明書きには福岡藩当時の川の流れが記してあって、

この絵図を現在の地図と重ね合わせてみると、↓

すぐそばを横切る「よかトピア通り」を境に、その先は海という風になっているんです。つまりこの先は埋め立てられた場所?ほんと?

wikipedia「よかトピア通り」の項を確認してみると、↓

よかトピア通りは、福岡県福岡市中央区福浜団地入口交差点から福岡県福岡市早良区室見川東川岸(愛宕大橋東詰)までの2.7 kmに付けられた福岡市道路愛称。

この通りがかつての海岸線であり、北側が埋立地である

とありました。おめでとうございます。正解でした。ではその「よかトピア通り」を渡ります。

地図をしっかり確認。直線が続くばかり。ちなみに「黒門川通り」はここから「黒門福浜線」へと名前を変えます。↓

福浜2丁目団地。↓

福浜公園。↓

左へ曲がれば福岡ドームの姿が。↓

そして当仁中学校を過ぎれば、もうそこは海。

伊崎港へ到着です。伊崎という名前は、wikipediaによると↓

1966年(昭和41年)から現在に至る地名の「伊崎」は、旧町名の「伊崎浦」による。伊崎浦は元和初年に長門国の浪人石井六兵衛が当地に漁村を開き、故郷の地名をとって伊崎浦と名付けたことに由来するという。大正中期までは、当地から地行、百道までは白砂の浜で、漁が盛んであった。その後、地先の公有水面(現在の福浜)が埋立てられ、浦の性格がなくなったため伊崎と命名された

ということだそうです。長門は山口。調べてみると、下関に伊崎町が、それから

周防大島に伊崎港がありました。どちらかがルーツ?

とにかくまあお疲れ様でした。終わり。


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【伊崎港】

福岡市中央区福浜2丁目7-7