長崎街道(一部)を辿ってみた02【山家宿】
前回の続きです。↓
前回ふと、長崎街道の中のごくごく一部である『原田宿』から『山家宿』までの区間を辿ってみようと思い立ち、
まずは福岡県筑紫野市の原田地区へとやってきました。
そして『原田宿』界隈を旅人気分で練り歩き、
ようやっと『筑紫神社』正面まで辿り着いたのでした。
では今回も元気に辿っていきたいと思います。↓
今回は『筑紫神社』へ寄らずに、その右脇の方へと進んでみます。
するとこんな案内が出ている。→『筑紫神社(長崎街道跡)』。
ん?こちらの道筋が長崎街道ってこと!?そのまま案内に導かれてみると、細い道の先に『筑紫神社』本殿を確認。↓
脇の道へ戻ってさらに進むと、鳥居があって↓
こちらにも矢印が出ている。そう、
この矢印については、以前『筑紫神社』を訪れた記事の中で触れたことがあります。↓
案内書きには↓
江戸時代より長崎街道原田宿として栄えてきた当地「原田」には延喜式明神大筑紫神社が鎮座されるこの街道を往来する旅人たちは牛馬を境内下の広場に休ませて、道中の安全祈願のため、この参道を通って参拝したと伝えられる
とのこと。境内下の広場、そして矢印もある。↓
今回も前回同様、この矢印のままに辿っていくと↓
途中で、先ほど歩いた小道と合流し、それから境内そして本殿へと道は続いてくのであった。↓
つまり矢印は長崎街道における「筑紫神社参拝ルート」を示していた模様。
それでは長崎街道へ戻り、旅路を進みます。↓
左手に「福岡常葉高校」。
それから筑紫野バイパスを過ぎて↓
こちらの交差点を右へ曲がるんだけども!なんと曲がらない!
ここでは曲がらず、先に見える赤い看板のところを右へ入っていきます。というのも、
地図に、あっちが『長崎街道』って書いてあるから。その通りに進みます。
結局この道はすぐに、先ほどの道と合流することに。昔の道筋の名残なのでしょうか。結局ちょっぴり遠回りになりました。↓
そこからしばらくすると、目の前に大きな「筑紫小学校」の看板。アピールがすごい。入学したい!↓
そばに西鉄大牟田線の踏切があって
線路を右へ進めば、すぐに「西鉄筑紫駅」があって
また踏切を渡った右手には「筑山中学校」。↓
その先には「宝満川」が流れています。
左を見ると、いい感じの激シブ橋が架かっている。有名な橋なのかな、存在感がバリバリである。
さて長崎街道はといいますと、ただただ真っ直ぐ進むことに。「下見」の交差点を過ぎ↓
ラーメン食べたい。↓
岡田のバス停の先に↓
踏切。JR原田線の踏切。
こちらの分かれ道では左を選択するが吉。↓
すると、ゆるやかな坂道が続いた先に
見覚えのある小路が私の目の前を大胆に横切るのでした。
ここは以前、左から右へと駆け抜けた『日田街道』で、じゃあ『長崎街道』はというと、ここを右へ曲がってそのまま『日田街道』に合流するわけですが
ちょとたけ待てくたさい。角を左へ少し行ったところに『郡境石』があるんです。あるったらあるんです。一度訪問しましたから。いまいちど見ておきたい。
さっそく説明書きを読んでみると↓
郡境石(二境界石)。夜須郡と御笠郡の境を示すもので夜須郡二と御笠郡天山との境に立てられています。二の集落は江戸時代山家下宿としてにぎわいました
とのこと。それでは先へ進みましょう。
通りの左手に『敬止義塾跡』。↓
以前に訪問済ですが、今回も再訪問。↓
説明書きによりますと↓
ここは福岡藩士であった杉山灌園が、明治10年(1877)ころに自宅の離れで塾を開いていました。近隣には30名ほどの塾生。寄宿している人も。明治23年(1890)、杉山灌園死去により閉塾
ちなみに杉山灌園は「ドグラマグラ」で知られる、
夢野久作のおじいちゃん。↓
そこからすぐの通り沿いには、なにかしらが彫られた石があり↓
そしてようやく『日田街道』と『長崎街道』の分岐点(薩摩海道も!?)へと辿り着くことが出来ました。
ちなみに『日田街道』はというと、このまま引き続き真っ直ぐ進んでいくことになります。
一方の『長崎街道』はといいますと、ここを左へ逸れていくんです。
だが!ちょっと待った!逸れる前に!少しだけ真っ直ぐ進みたい。進ませて!頼む!↓
進んだ先の通り角には『山家宿番所跡』そして『山家宿追分石』が。
つまりですよ。追分石があるということは、ここで道は分かれると。そしてこの地に置かれた番所によって、宿場町への往来が厳しくチェックされたのでしょう。きっと。
さて『日田街道』はここを渡って真っ直ぐで、
一方、通りを左へ向かって進んでみたら、
そこには「JR山家駅」がある、といったところで、今回はここまで。
無事に山家地区まで辿り着きました。おめでとうございます!
お話は次回に続きます。よろしくお願いします。↓
【山家宿番所跡】
福岡県筑紫野市山家5094