大君の遠の朝廷はこれ天下之一都会【大宰府政庁跡01】
前回の続きです。↓
前回、かつて福岡県太宰府市の『朱雀大路』にあったという「朱雀門」の礎石を見に行ったお話をしました。(実際に訪ねたのは夏頃のこと)↓
今回はその『朱雀大路』を北へ向かって【大宰府政庁跡】を訪ねたいと思います。(実際に訪ねたのは夏頃のこと)↓
「大宰府政庁跡」の交差点から、大宰府政庁を鋭く眺める著者。こんにちは。↓
そばに説明書きがありましたので↓
読んでみたいと思います。↓
1300年前、この地に「大君の遠の朝廷」である大宰府政庁が置かれ、碁盤目状(条坊)の都市が造られ、「天下之一都会」と呼ばれました。大陸からの外国使節は、まず博多湾岸の「筑紫館(鴻臚館)」に入り、それから大宰府へ。条坊内の客館に滞在して大宰府政庁へ向かいました
この通りが「政庁通り」で↓
通り沿いの、政庁跡入り口そばには「大伴旅人」の歌碑が立っています。↓
それでは、いざ!正面入り口から「大宰府政庁跡」散策してみましょう。↓
入ってすぐは、こういう景色になっていて、↓
入り口すぐにも説明書き。↓
読んでみるとこんな具合。↓
古代、西海道と呼ばれた九州一円を統括していた大宰府は、対外交渉の窓口でした。7世紀後半に堀立柱建物が建てられ、8世紀初頭に礎石を用いた朝堂院形式の建物に整備されました
そして↓
藤原純友の乱で焼き討ちされましたが、10世紀に立派に再建
また↓
かつて菅原道真公が「都府の桜はわずかに瓦の色を看る」とうたっているように、その建物の姿は壮大なものでした
そして↓
政庁を中心にして周囲には数多くの役所が配置され、その規模は平城・平安に次ぐ「天下の一都会」でありました
復元模型。分かりやすくて助かります。↓
「南門跡」「中門跡」「回廊跡」。↓
政庁跡の周囲は、例えばこっちとか↓
こっちもだけど、溝!?小川?で囲まれる形になっているみたい。↓
入り口の石段を上ると、目の前には広大な敷地が広がっており↓
すぐ手前の辺りに「南門跡」の碑。↓
その「南門」の復元模型のイラストがこちら。かっこいい。↓
敷地の右へと進んでみると、「築地跡」なる碑があって↓
さらに進んで小川を越えると↓
ここにも石碑。↓
これは大伴旅人で知られる「万葉集筑紫歌壇」の碑で↓
離れて見たらこんな感じ。後ろに見えるのは「大宰府展示館」です。↓
(※大宰府展示館を訪ねたお話はこちらで!↓)
(※大宰府展示館内にある大宰府政庁の復元模型はこちら!↓)
(※大宰府政庁の建物配置図はこんな具合。↓)
さて政庁の右端までやってきましたので、いったん敷地の真ん中辺りまで戻ることにします。
「回廊跡」があって↓
「中門跡」があって↓
他にも色々たくさんあるんだけども!
続きは次回にお話したいです。よろしくお願いします。↓
【大宰府政庁跡】
福岡県太宰府市観世音寺4丁目6-1