多々良、多々羅、鑪、鈩、錧、蹈鞴、踏鞴【観世音寺の鐘01】
以前、福岡県太宰府市の【観世音寺】を訪ねた際、
境内にあるという古の梵鐘を見学しようと心待ちにしていたんですが、残念ながらご対面叶わず。
ただ一筋の涙が私の頬を零れ落ちるばかりだったのでした。こんにちは。
あれから鐘のことはそれっきり。先日ふと、もうずいぶん時を経たことだし、そろそろ『九州国立博物館』から返却されていてもいい頃合いだろうと思い立ち、久しぶりに訪ねたみたんです。
政庁通りから観世音寺へと入っていき、心ときめかせて先へ進みます。
そしたら、ここに鐘が↓
ないっていうね。でしょうね。だしょうね。8割くらいはそう予想してました。あれ、ひょっとするとですよ、
私が訪ねない時には返却されており、こうして私が訪ねるタイミングでたまたま貸し出されている。そんなことはあるわけがなく、
これはつまり、鐘は半永久的に『九州国立博物館』へ貸し出されているという形なのかもしれない。表記変わってるし。
とにもかくにも仕方がありません。でもたまには、観世音寺に帰って来て欲しいな。なぜなら『九州国立博物館』まで行くのは面倒だから。
ところでこの鐘はいったいなんなのか、さっきからなんのお話をしているのか。ここであらためて、先ほどの説明書きを読んで復習しておきます。
この梵鐘は京都の妙心寺の鐘と兄弟といわれ、その古さにおいても優秀さにおいても日本一。糟屋郡多々良で鋳造されたと伝えられています
続きます。↓
菅公の詩に ’都府樓纔看瓦色 観音寺只聴鐘聲’ とあるのはこの鐘のこと
とのこと。菅原道真公の詩に関しては、以前訪ねた榎寺にてそのお話を聞きました。↓
これは、道真公が大宰府での暮らしをつづった漢詩集「菅家後集」の中の『不出門』の一節。
お次に、観世音寺の鐘が京都妙心寺の兄弟鐘というお話は、こちらも以前訪ねた『阿恵官衙遺跡』で勉強しました。
その時は、兄弟鐘だということは分かったけれど、糟屋との関わりが良く分からなかったんです。でも今回、糟屋郡多々良で鐘が鋳造されたためだと理解できました。
以前にもこの場所で同じ説明文を読んでいた筈なんだけれど、多分頭がボーっとしたに違いありません。
では、その糟屋郡多々良とはなんぞやと。そこでまず、wikipedia「多々良川」の項を参照してみますと↓
伝承に依れば、神功皇后の三韓出兵の際、大陸渡来の鋳物工がこの地に住み着き、多々良川の川砂の砂鉄で鋳物を作っていたことに由来するとされる
とありました。じゃあその「多々良」っていうのはどういう意味なんですかっていう。こちらもwikipediaで調べてみると、↓
多々良(たたら)は、他に多々羅、鑪、鈩、錧、蹈鞴、踏鞴とも表記。「たたら製鉄」という日本の古式製鉄をさす
とのこと。新しい言葉が出てきました。そこで「たたら製鉄」の項を参照してみます。↓
たたら製鉄とは、日本古代から発展した製鉄法で、炉に空気を送り込むのに使われる鞴(ふいご)が「たたら」と呼ばれていたために付けられた名称。砂鉄や鉄鉱石を粘土製の炉で木炭を用いて比較的低温で還元し、純度の高い鉄を生産できることを特徴とする
続きます。↓
近年の発掘、研究の進展によって、福岡県福岡市の博多遺跡群などでは、弥生時代の製鉄遺跡と思われる痕跡が見つかっている
もう少しだけ続きます。↓
当初は自然風のみを利用した方法であったため、「鉄滓(のろ)」と呼ばれる不純物を多く含んだスポンジ状の海綿鉄ができ、それを再度加熱した上、ノロと余分な炭素を叩き出すことで錬鉄や鋼に加工した。間もなくしてフイゴが使われるようになると、その後の技術の改良や進歩によってたたら製鉄は徐々に規模を拡大し始める
とありました。こちらは以前、福岡市東区の『陣の越』を訪ねた時に見た多々良川の様子。↓
熱せられた鉄のように次第に赤く染まりゆく空、そして夕日が滲む多々良川。この侘しさがたまらない。
梵鐘のお話は次回に続きます。よろしくお願いします。
【観世音寺】
福岡県太宰府市観世音寺5丁目6-1