公園の片隅に眠るあなたは【谷公園】
先日、旧筑肥線を辿っていましたところ、休憩に偶然立ち寄ったのが【谷公園】です。
【旧筑肥線】のお話はこちら!
梅光園緑地から少し外れた奥のところ。遠くから階段が見えます。
急な階段の下に「谷公園」の案内板。
なんとか階段をのぼると、そこは福岡陸軍墓地でした。
目の前に石灯籠が並んでいます。
読めませんけれど石碑もある。
さらに階段をのぼると
広場があって
その奥には大きな慰霊碑がずらっと立ち並んでいます。荘厳な感じがします。
この公園内には明治維新から太平洋戦争までの戦没者(9千柱もの霊が眠るといわれています)が祀られてあるのだそうです。
慰霊碑そばの石碑にはこう由来が記されてありました。要約引用です。
『もともとこの地に日清戦役以降の戦病死者等の墓が建てられていた。昭和10年に軍民一体となって那珂川町片縄から巨大な御影石を切り出し、改修統合した。などなど』
いくつか慰霊碑を見ていくことにします。
こちらは『ビルマ・タイ 拉孟雲南地区戦没者之碑』と記されています。
『明治維新志士之墓』
『満洲及上海事変戰病死者合同碑』
『ガ島戦士之碑』
ガ島というのはガダルカナル島のこと。
大きな慰霊碑とは別に、個人のお墓もいくつか。
2005年の福岡西方沖地震で、公園内の墓石もずいぶんと被害を受けたのだそう。
有志の方のご協力によって、今日もきれいに整備された公園内を散策できますが、以前には放置されていたり色々と紆余曲折があったのだとか。
そんなご遺骨の眠る公園の片隅に、二つ並ぶ墓石がありました。
本当に片隅にひっそりと。
ドイツビールが供えられていたので、不思議に思って見てみますと石碑に
『Hier ruhen zwei deutsche tsingtau kämpfer』
と記されています(おそらく)。ざっくり読むと、ここに二人のドイツ兵が安らかに眠る、と。
『tsingtau kämpfer』は調べてみると、『青島の戦い』のこと。
青島は中国山東半島にあり、第一次大戦においてドイツの東アジア拠点のひとつでした。
青島の戦いとはその青島を日本とイギリスの連合軍が攻略したという1914年に起こった戦いです。
左には『独逸國海軍一等砲兵ハインリッヒ・ヴェルター』
右には『独逸國海軍歩兵軍曹フランク・ルーチェック(独語で読むとこっちっぽいです)』
とあります。
ドイツ兵の方ということは捕虜として福岡に連れてこられたのでしょう。
ウィキペディアの情報ですが、青島の戦いの項にこうあります。要約引用です。
『多くのドイツ兵捕虜は日本の12か所の捕虜収容所に移送された。1919年のベルサイユ条約発効まで続いた。トラブルも生じたが、多くの収容所では地元民との交流があり、残留する俘虜も現れた。』
そしてそれに付随して
『ドイツパン、ドイツ菓子、楽器演奏、鉄棒体操等が広められた』
青島の戦いは1914年の10月から11月まで。
お二人が亡くなられたのは1915年と1918年です。
ご存命の間、お二人が福岡でどう過ごされたかは分かりません。
言葉の通じない異国の地。失意のうちに眠る。
それはたとえどこの国であっても大変辛いこと。
今まで100年そしてこれからもずっとこの公園の片隅で。
お名前で検索すると、ドイツ語ですが青島の戦いに関する詳細なサイトがございました。
★公園内に駐車場や自転車を止めるスペースはございませんので、ご注意ください。
【谷公園】
福岡市中央区谷2丁目11-28