時を経て流れ流れて境内へ【薬師の森と乙金宝満神社】
前回の続きです。
前回、ふと訪ねた須恵器展の展示物に添えられた説明書きの中に、「薬師の森」そして「乙金」の文字を見つけたんです。
「薬師の森」「乙金」といえば!?そうですそうそうご名答。誰もが『乙金宝満神社』のことを思い出すに違いありません。思い出さずにはいられない。え待って!?思い出さない!?
そんな方のために、↓
今回あらためて自サイト記事から、関係箇所を参照しておきます。(元は大野城市HP内記事「天神の森」からのものです)。↓
道真公が乙金地区まで来たとき、お供が病気になり死んでしまいました。
悲しんだ道真公は、村はずれの森の一隅に埋めて手厚く葬ったといいます。それからこの森を『天神森』とよびようになりました。
森の中にはいつ頃建てられたのかわからない自然石の石塔があり、「疫神(えきじん)」と刻まれていて、村人たちは病魔から守っていただくようお祈りしています
続きます。↓
この疫神の碑は道路の拡幅舗装のため現在は乙金宝満神社境内に移設されています
という具合。
また、大野城市にぎわいづくり協議会HP『まどかのふもと』には、疫神についてこんなお話が。
(こちらも参照させていただきます。ありがとうございます)。↓
乙金宝満神社「大行事・疫神」。もとは小字王城の丘の上にあったというが、昭和四十二年、小学校新設工事の時に小字ハサコの薬師の森の道端に移した。昭和五十五年の道路拡幅で神社境内に再移転
つまり疫神は、もともと王城の丘の上の村はずれの森『天神の森』にあったのが、『薬師の森』の道端に移され、さらに『乙金宝満神社』へと移されたということのよう。
そしてこの『薬師の森』というのが、今回須恵器展で見つけた『薬師の森遺跡』とつながりがあるんじゃなかろうかいと、今回思い出したというわけです。
『乙金宝満神社』は乙金2丁目に鎮座しており、
『薬師の森遺跡』は乙金3丁目にあるとのこと。
そこでさっそく乙金3丁目界隈を散策してみたんです。でもね、
そこはきれいな住宅街がただただ広がるばかりで、肝心の『薬師の森』そして『薬師の森遺跡』についてはさっぱり分かりませんでした。
といったところで、『須恵器ならびに薬師の森遺跡』のお話はここでいったんおしまいです。
だがしかし。だがだがしかし。だがしかし。
久しぶりに『乙金宝満神社』へと寄ってみたら、ちょっと気になることがあったんです。さあ聞いてください。
以前の訪問時にも当該記事内でご報告だけはしていたんですが、そのままあっさりスルーしていたこちらの案内板!再度あらためて読んでみたいと思います。↓
夏越し祓い祇園踊りの絵馬。乙金宝満神社の拝殿に掲げられていた絵馬。江戸時代後期に博多の町絵師村田東圃によって描かれたもの。縦117cm、横188cmの大きさ
続きます。↓
絵馬には11人の男女が手に扇を持ち輪になって踊る姿が描かれています。古代から6月と12月はそれまで半年の穢れを祓い清め、その後半年の無事を祈る「祓え」の神事が行われてきました。旧暦6月30日にを「夏越し祓い」といい、夏は災害が多く疫病も流行ったため、茅の輪くぐりや人形流しの祓えをして乗り切ったのでした
絵師村田東圃?茅の輪くぐりに人形流し?ぐっとくるパワーワードがたくさん溢れてきました!
これらに纏わるお話は、また別の機会を待ってみたいです。よろしくお願いします。完。
【乙金宝満神社】
福岡県大野城市乙金2丁目17