館館と鳴いている【鴻臚館跡展示館/福岡城06】
前回の続きです。↓
前回、福岡市中央区にある福岡城の敷地内「鴻臚館広場」をふらふらと徘徊し、それから『福岡城むかし探訪館』をじっくり見学しました。↓
今回は、その探訪館すぐそばにある【鴻臚館跡展示館】を訪ねてみたいと思います。館つながり!!↓
さて【鴻臚館跡展示館】のすぐ隣りには大きな石垣があって↓
その石垣の手前のところに案内板がありましたので↓
読んでみたいと思います。↓
福岡城は黒田長政が7年がかりで築城しました。現在の舞鶴公園にあたる内城は「天守台」「本丸」「二の丸」「三の丸」の4層に分かれ、また47もの櫓がありました
そして↓
現在地の「東御門跡」は「三の丸」と「二の丸」をつなぐ門。ここから「二の丸」「本丸」「天守台」へと城内を登っていくメインルートでした。「三の丸」には藩主を支える家老職の屋敷群がありました
地図も掲載されていて↓
これまで辿った場所を赤ラインで引いてみると、こういう具合。↓
今いる「三の丸」から「東御門跡」を抜けて↓
「二の丸」へと続く階段はこんな感じ。「二の丸」のお話はまたのちほど。↓
それでは「三の丸」へ戻って【鴻臚館跡展示館】を訪ねますよっ、ていうタイミングで、!
館の前のフェンスになにかが貼り付けてあるのを発見。↓
そこには『史跡 鴻臚館跡パート1』と記してあり、なにやら【鴻臚館】に関する基本的な情報が書いてあるようです。さっそく読んでみると↓
【鴻臚館】は外国からの賓客をもてなすための施設で、「平安京」「難波」「筑紫」の3ヶ所に設けられました。ここ「筑紫」の【鴻臚館】は以前は『筑紫館』と呼ばれていました
そして↓
奈良時代においては外国への窓口であり、平安時代には交易の場としての役割を担っていました
とありました。当時のイメージ図。すぐそこが海!!↓
またこちらには「史跡 鴻臚館跡パート2」が張り付けられており、↓
読んでみるとこんな具合。↓
【鴻臚館】は堀で隔てられた南北2つの客館で構成されています。【鴻臚館】の造営以前は、2本の丘陵が東へのび古墳が造られていました
また↓
建物は時代によって変遷しました。時を経て1047年のこと。「大宋商客宿坊」放火犯人を捕縛した記録を最後に文献から姿を消したのでした
といったところで、そろそろ↓
入館したいと思います。↓
え?おや?ちょっと待って。↓
館の左隣りには一段高くなった原っぱ的スペースがあって↓
そこにポツンと案内板が立っています。なんだろう。いったいなんなの。↓
読んでみると↓
『東門』。奈良時代の筑紫館(鴻臚館の前身)南館の東門です
ほう。つまり【鴻臚館跡展示館】に、かつての南館があって↓
私と【鴻臚館跡展示館】の間のところに、かつて東門があったということ!?違う!?展示館内へ入ればそういったことも分かるでしょう。↓
とか言ってたら今度は「史跡 鴻臚館跡パート3」を発見。↓
頑張って読んでみます。↓
堀の東側には土盛の橋が架けられ、南北の館をつなぐ通路となっていました。トイレの遺構も見つかっています
すごい情報量です。もう展示館に入る必要なくなくなくない?くらいに【鴻臚館】について学んだ気がする私は、↓
ついぞそのまま家路についたのであった。
冗談ですよ。満を持して入館です。↓
館内真ん中に、どんと復元建物があって↓
そこをぐるりと廻って見学するようになっています。↓
「建物の部分名称」。ちっとも分からないけど面白い。↓
他にも年表や↓
鴻臚館遺跡模型も展示。↓
整備作業中とのこと。↓
古代官道の図。東門西門のやつですね。鴻臚館は西門へと続きます。
(※三宅廃寺のお話ははこちらで!↓)
またこっちのパネルから↓
少し参照させていただきますと↓
「筑紫」の【鴻臚館】は飛鳥時代から平安時代初めまでは、『筑紫館』とよばれていました。『筑紫館』の造営は、唐と新羅の連合軍と百済を救援した倭国(日本)とが戦った白村江の戦い(663)から間もない時期に、緊迫する朝鮮半島の情勢を見ながら、大宰府の整備とともに進められました
とありました。↓
といった具合に、ぐるり一周見学を終えましたので、さっそうと【鴻臚館跡展示館】を退館し、↓
展示館脇の小道を歩いてみることにしたんです。↓
小道だけど雰囲気があっていいじゃんか!?とか言って↓
ぼんやり道なりに歩いていると↓
いつの間にか↓
赤坂のけやき通りの↓
「舞鶴公園南口」に辿り着いていたのであった。↓
これって近道!ミラクルいただきました!じゃ帰ります。お疲れ様でした。
次回は『追い廻し門跡』辺りに集合です。よろしくお願いします。↓
【鴻臚館展示館】
福岡市中央区城内