外交使節団員になれたっぽい雰囲気【客館跡02/02】
前回の続きです。↓
前回、福岡県太宰府市の『榎社』界隈を散策していたら、そこは【客館跡】だったのだ!こんにちは。↓
では引き続き【客館跡】を見学していきたいと思います。↓
ちなみに、こちら【客館跡】広場には、あちこちにその場所の意味や役割を示したプレートそして説明書きがあり、なんとも親切設計になっています。見て歩くだけでもなかなか楽しいもの。↓
例えばこちらは「東西道路跡(十五条路)」なんだそうで↓
説明書きを読んでみると↓
こんな具合。↓
大宰府の街割り。大宰府では90m四方の基準線をもとに東西南北の街路が設定され、その間を街区としました。これを条坊とよびます
そして↓
ここ「十五条路」では7世紀末の土器や瓦がまとまって出土しました。これは大変重要な発見!!
地図を参照してみるとこうなっていて↓
ついでに別の地図も参照してみますね。↓
分かったような分からないような。つまり分かってないけど。
朱雀大路は=中央大路のこと?また「朱雀大路」は地図では真っ直ぐのびているんだけど、現在の地図にある「朱雀‘大通り’」は
曲がりくねっています。これらはべつものなのか?そこがさっぱり分かりません。なんなのいったい。
ちなみにあちらに見える電車の路線は、二日市から始まる西鉄太宰府線。↓
線路そばへ寄ってみると↓
踏切があって、近くに「展望所」とか書いてありましたので↓
「展望所」に向かいます。↓
小さいけれどきれいな建物で↓
そばには【客館跡】の立派な碑が立っていて↓
こちらが1階。【客館跡】に関する色んな説明書きが並んでいます。↓
中でも最初に目を引いたのがこのメッセージ。↓
「まずここ(展望所)で客館のことを学ぼう!」。そう基本を学ぶことの大切さ。ごめんなさい。↓
ちなみにこちらの説明書きを読んで、「朱雀大路」は「中央大路」のことではあるけれど、「朱雀大通り」ではないことが分かりましたし↓
その「朱雀大路」は、「榎社」と「客館跡」で挟まれた場所を、まさにぶち抜くかのようにのびて、政庁へとつながることも把握しました。↓
他にもこちらの説明書きから、ここ【客館跡】にまつわるお話をまとめて参照してみたいと思います。↓
1300年のむかし、外国の使いを迎えた客館跡。このたびⅠ期整備が完成しました
隣りにはかわいらしいイラスト。このイラストを見れば、【客館跡】の姿はまさに一目瞭然!!分かり易!!↓
大宰府は、律令制度のもとに九州地方を管轄し、日本の軍事・外交などの対外機能を担った、きわめて重要な国の役所です。万葉集には「大君の遠の朝廷」と詠われています
そして↓
碁盤目の街割りであった大宰府坊条は、平安時代は南北が約2キロ、東西が約1.8キロ。奈良時代になると、街区の北に役所(官衙)やその中心施設(政庁)が置かれました。役所の正門・朱雀門から南に約1.4キロのびる幅36mの朱雀大路は左郭と右郭を分けるメインストリートでした
こちらは↓
以前訪れた「大宰府政庁跡」で↓
そこからのびる朱雀大通りを少し進んだ先に「すざくおおはし」が架かっており↓
その橋のたもとに「大宰府朱雀門礎石(推定)」があるんです。ここに朱雀門(推定)があって、「朱雀大路」をこのまま真っ直ぐ進めば【客館跡】というわけ。↓
では説明書きの参照に戻ります。↓
もともと西鉄電車の車庫であったこの場所で発掘調査が行われました。その結果、この土地は、大宰府を訪れた外国使節が宿泊する8世紀中頃から9世紀前半の客館の跡だったことが判明しました
また↓
かつてこの地には、百済の都を模した要塞(水城・大野城・基肄城)があり、それを外郭として都市をそなえ、北に政庁、中央に朱雀大路を置いて大宰府が誕生しました
そして↓
外国からの使節は、まず博多湾岸の「筑紫館(鴻臚館)」に入り、そこから大宰府を目指しました。大宰府では客館に滞在し、大宰府政庁での外交儀礼や宴にのぞみました
とのこと。こちらが以前訪れた
福岡城内にある「筑紫館(鴻臚館)跡」の様子。↓
なにはともあれ、【客館跡】の役割やその当時の姿を、おぼろげながらもこちらの「展望所」で知ることができました。最初にまず訪れるべき!!↓
「展望所」ということですので、2階へ上って展望してみますね。そして【客館跡】の散策を〆たいと思います。↓
おや「展望所」とはいうけれど、わりと低くて怖くない。足元に360度プレートがあって↓
それを見ながら、かつての景色を思い浮かべてみるのもいいです。↓
誰もいなかったのがもったいないくらい、とても楽しい場所でした。(館)もとい(完)。!
【客館跡】
福岡県太宰府市朱雀3丁目13