奈良原刑部少輔高助が築いたという不動城【牛頸不動城跡】
8月もそろそろ終わりですよ!?にも関わらずまだまだ夏真っ盛りじゃないですか。なんなの。暑くてさすがにバテ気味です。
そこで気合を入れ直すべく、久しぶりに『牛頸ダム』をいっちょ訪ねてみようと思い立ったのでした。
なぜならば!『牛頸ダム』(↓)へ行けば、
ピリッと刺激的なデアイがあるかもしれないですから!!ひんやりですよ。↓
ちなみに、以前ダムを訪ねた時に、『牛頸ダム』にはドレスコードがあることを知りましたので、今回、赤いものは身に着けないよう気を付けました。ご安心ください。↓
それでは向かいます。
福岡県大野城市の牛頸地区に鎮座する『平野神社』(↑)を通り過ぎて↓
そのまま真っ直ぐ「ダム記念道路」を進んでいると、通りの右側にふと案内板があるのを発見。↓
ちょうど平野台入口交差点の手前のところで、奥の方はまるで森のように緑がこんもり繁っています。↓
近づいて読んでみると↓
こうありました。↓
不動城跡は、大野城市の南部である牛頸3丁目の通称「城の山」に残る戦国時代の山城。住宅地開発で部分的に削平。主要部分は保存され山頂に遺構が残ります
そして↓
記録によると、筑前の戦国武将である秋月氏に従う奈良原刑部少輔高助が城を築いた。その子孫は秀吉の九州攻めで討ち死。のちの研究によると、九州攻め当時は筑紫氏方の端城になっていたと判明
つまりここは奈良原刑部少輔高助の城。
上ってみたいけど、どこから上ってよいのやら。↓
とりあえず辺りをブラブラ歩いていると、ちょうど交差点を右に入って、↓
さらに右に曲がったとろに↓
公園を発見。↓
ここは「平野台さくら公園」。↓
園内奥には石碑があって「衣振山跡地」と記されています。もともとは「衣振山」でそこに不動城があって、現在は通称「城の山」と呼ばれている!?合ってます!?よく分かりません。↓
石碑の裏には由来書きが記してあって↓
そこにはこういうことが書いてありました。↓
牛頸は6世紀の頃、窯の技術を持った渡来人が移り住み栄えました。そして中国の詩の一節から「衣振山」「足洗川」と名付けたといわれています
とのこと。園内をさらに上ってみると、そこには遊具と東屋があったんだけど、お城の遺構だとか案内板なんかは見当たりませんでした。↓
上り口がないんだったら、試しに上るんじゃなくて下ってみたら!!↓
すると、園の奥の片隅にこっそりひっそり階段を発見。↓
そこからしばらく上ると頂上部に到着。↓
ここでもやっぱり、遺構らしきものは見つけられなかったけど、眼下にはステキな景色が広がっています。標高93.3mらしい。↓
この風景のむこうのところに、「牛頸浄水場」の姿をチラっと確認することができましたので、寄ってみることにします。↓
「牛頸浄水場」といえば、
そうです。みんな大好き『胴ノ元古墳公園』(↓)!!
ふーん、ちっとも変わってないじゃん、いい感じじゃんとか言って、訪問後ダッシュで家に帰ってカップラーメン食べてたんですけど↓
ダムのことすっかり忘れてた!でもラーメン食べたので元気100倍。完。
※追記
どこかで見かけた案内板に、牛頸不動城に関する説明書きがありましたので、
ここで参照させていただきます。↓
戦国時代の山城。平野神社の南側にある通称「城の山」にあります。平野台団地の開発により壊されている場所もありますが、曲輪群や土塁・堀切・竪堀などの城郭遺構がよく残っています
続きます。↓
城のまわりにはジョウノシタ・ブシマチなどの城に関連する地名が残されています。築城は秋月種実の配下にあった奈良原刑部少輔高助によるものですが、後には筑紫氏の端城(はじろ)となったよう
【牛頸不動城跡】
福岡県大野城市平野台1丁目4-13