繁氏という男よ【石堂地蔵尊】【苅萱の関跡】
福岡市博多区千代を流れる「御笠川」に架かったこの「石堂橋」を渡り↓
3号線を横切って東へ入ったすぐのところに【石堂地蔵尊】があります。↓
『千代大学通り』の片隅にぽつんと建つ小さな地蔵堂です。
こちらの地蔵堂は「子授け地蔵」だとか「刈萱地蔵」とも呼ばれているそうで。
また、能や琵琶そして浄瑠璃で全国的に知られる『苅萱』の誕生の地でもあるらしいんです。
そんな『石堂地蔵尊』の由来はこんな具合。↓
筑前(福岡)の守護職であった加藤繁昌(しげまさ)は弓矢の達人で知られる男。そんな彼ですが、40歳を超えても子宝に恵まれません。
そこで香椎宮に願掛けをしてみたところ、神のお告げが!!
「石堂川口のそばにある地蔵尊から、丸くて温かい石を頂いて、それを妻に与えてみよ!!」
すると、神のお告げ通りに…。
その10ヶ月後に、元気な男の子が生まれ、繁昌はこの子どもに『石堂丸』と名付けたのでした。
そんな逸話から、こちらの【石堂地蔵尊】は子宝にご利益があるとされています。
この時に生まれた『石堂丸』が、伝承『苅萱』のメインキャラクターである『加藤左衛門繁氏(しげうじ)』であり、のちの『苅萱道心(かりやどうしん)』であるというわけ。
つまり、石堂丸→加藤左衛門繁氏→苅萱道心と名前は変わったけど、同一人物ってことですね。
で、その『苅萱』っていうのはこんなお話です。
(wikipediaはこちらを参照)
800年あまり前のことです。
『石堂丸』はのちに加藤左衛門繁氏(しげうじ)と名乗り、筑前(福岡)御笠郡刈萱荘(かるかや)の関守を務めました。
妻桂子と平和に暮らしていたけれど
ピンときたとかこないとかで、ある時千里姫(ちさとひめ)という女性を第二夫人(側室)として迎え入れたのでした。
そんなことをすると、当然家庭は上手くいきません。
憎しみ合う女性同士の仲たがいに悩み、繁氏は家を去ってしまいました。そして出家をし修行のために高野山へ向かったのです。
そしてこの地で繁氏は「苅萱道心」と称するようになったのでした。
ん!?色々言いたいことはあるんだけど…。一番言いたいのは
「去ってんな!?」
ってことかな。話はまだまだ続きます。
残された第二夫人である千里は家を離れたのち、繁氏との子を出産しました。
そして父の幼名にちなんでその子に「石童(堂)丸」と名付たのです。
分かりづら。一応『どう』の漢字だけが親子で違うみたい。父が「堂」で息子が「童」。
それから数年後、石童丸は立派に育ち、病弱な母(千里)とともに父(a.k.a石堂丸)がいると噂で聞いた高野山へ向かいます。
ですが高野山は女人禁制の地。母は麓の宿に留まり、石童丸ひとりで父を探しに行くのでした。
その道中で、とある僧(実は父である苅萱道心、つまり石童丸の父である石堂丸)に出会います。事情を聞いた僧(父)は石童丸(息子)に
「お前のお父さんはすでに死んでいる!!」とか言い放ったのであった。
ってか、おい!!
父の死を父から聞いた石童丸。母の元へ戻り僧(父)の言葉を母に伝えます。すると…。
夫の死(仮)を聞いた病弱の母はショックで死んでしまったのでした。
おい?
こうして天涯孤独(仮)の身になった石童丸は、再び僧(苅萱道心つまり父)を訪ねます。
石童丸は僧(父)の弟子になり、共に修行すること30年あまり。長い期間を父子は一緒に過ごしたのです。
が、その生涯において苅萱道心(父)は秘密を最後まで貫き通したのでした。
なんでだよ!!
このお話は古くからの伝承ですので、様々にストーリーが枝分かれして現在に残っています。
中には父子ともに、同時刻に往生を遂げたというお話もあるそうです。
さて『石堂丸地蔵尊』の堂内をのぞくと、玉を持つ地蔵が祀られていました。↓
石堂橋には『石堂丸』のレリーフが飾られている。↓
また、こちら太宰府の日田街道沿いには『刈萱の石碑』がありました。↓
『刈萱』というのは、大宰府の警固のために置かれた関所。もともと繁氏(石堂丸)はここで関守を務め、幸せに暮らしていたんです。
だけど話は転がり始め…。
なにはともあれ。とにかく繁氏という男よ…。
【石堂地蔵尊】
福岡市博多区千代3丁目6
【苅萱の関跡】
太宰府市坂本1丁目3-15