条坊制では東西の列を条、南北の列を坊【大宰府展示館02】
前回の続きです。↓
前回、前から訪ねてみたかった【大宰府展示館】の、その館前に置かれた顔出しパネルで一人ポーズをとってみたら、すごく寂しい気持ちになったのでした。こんにちは。
では入館のお時間です。入館料は200円。扉を開けて入って左の受付でお金を払い、
そして写真撮影の許可も得ましたので、準備万端。
それではまず、いただいたパンフレットを読んでみたいと思います。↓
大宰府史跡から出土した様々な資料をはじめ、梅花の宴ジオラマや復元模型などを展示。古代大宰府についての歴史文化を紹介しています
とありました。ちなみに大宰府については、↓
大宰府とは、日本古代律令国家の外交軍事の一端を担い、西海道(九州)全体を統括した、当時最大の地方官衙(役所)。大宰府政庁跡はその中枢施設があった場所
それから↓
太宰府といえば太宰府天満宮が知られる一方で、ここには多くの史跡が存在。大宰府政庁跡、水城跡、大野城跡、観世音寺、筑前国分寺跡。大宰府展示館は発掘調査で確認された遺構を保存・公開します
という具合。
館内は、大きく左部と右部に分かれており、まずは左部から見ていくことにします。↓
さっそく大宰府坊条のイメージジオラマが目の前に。↓
説明書きを読んでみると、↓
古代大宰府の街並みは、地方最大の役所であった「大宰府」が中心。海外との交流も盛んで外交施設を迎える場でもあった大宰府は大変賑やか。当時の申請書には「この府、天下の一都会なり」と記されています
だそうです。
ちなみに、このジオラマで気になることが一つ。それはこの右側のこの部分。良く見てみると『般若寺』と記してあります。なんだっけ。聞いたことあるようなないような。
さっそく自サイト検索をかますと、こんな記事がヒットしました。↓
そこで記事からちょっと抜粋してみると、↓
般若寺は大化5年(649)、大宰帥に任ぜられた蘇我日向が、孝徳天皇の病気平癒のために建立したと伝えられるけど、出土する瓦からは8世紀の奈良朝の建立ともされています。
いつ滅びたかは不明だけど、この地は般若寺跡と伝えられ、塔の心礎と石像七重塔が建っています
とのこと。そういえば以前、七重塔を訪ねたことがありますよ。あれが『般若寺跡』だったのか。すっかり忘れてました。
それにしても、ジオラマで見る般若寺はかなりの存在感ですね!!(般若寺のお話の続きはこちらでも!↓)
また「古代大宰府の街並み」に関する説明書きもありましたので、↓
やはりざっと読んでみたいと思います。↓
古代大宰府の街並みは中国唐の長安にならった平城京や平安京と同じく、北の中央に中心となる施設(政庁)が置かれました。この政庁を起点として、南へのびる朱雀大路を中心に、碁盤の目のように道路が走り、街並みを区画する条坊制広がっていたようです。条坊制では、東西の列を条、南北の列を坊と呼びます
とのこと。そして大宰府政庁の構造図。南門、中門、正殿、後殿、北門、という具合になっている。↓
からの説明書きである。↓
もちろん読んでみると、↓
大宰府政庁。大宰府の中心部で重要な儀式などに使われた建物。8世紀前半に奈良の平城京を模した朝堂院形式の礎石建物に整備されるなど3回の建て替えが判明しています
だそうです。
それからそばの展示ケースをちょっとのぞいてみると、え!あれ!遠賀団印(複製)じゃん!!じゃん!?↓
(※遠賀団印ならびに御笠団印についてはこちらの記事も是非!↓)
そしていよいよ館内左部の一番奥へ向かいますよ。こちらに陣取るのが、↓
『素掘りの溝』。初耳。いったいなんなのか。なにごとなのか。↓
説明書きによりますと↓
1300年前の素掘りの溝。幅ヤク80cm、深さヤク30cm。8世紀頃のものと考えられます。溝は外へ続き、展示館東にある月山東地区官衙を東西に横切っていたことから、官衙(役所)の施設を区画するためのものでしょう
なるほどお、といったところで今回はここまで。続きは次回になります。よろしくお願いします。
【大宰府展示館】
福岡県太宰府市観世音寺4丁目6-1
開館時間:9:00から16:30
休館日:月曜日
入館料:大人200円 大学生高校生100円 中学生以下無料