お綱の想いと采女の想いは交錯しない【枯野塚】
先日、福岡市東区の馬出地区にある【枯野塚】を訪ねましたので、そのお話です。
住宅地の中の民家と民家の隙間を通り抜けていくという↓
そんな、ちょっと分かりづらい場所にある【枯野塚】ですが↓
【枯野塚】とは、いったいなんなんです!?こんにちは。↓
すぐそばのところに案内板がありましたので↓
さっそく読んでみたいと思います。↓
元禄12年(1699)、郷土の俳人「哺川」は、博多に滞在していた芭蕉の弟子(向井去来)から、芭蕉の辞世の句を贈られました
そのことに感激した「哺川」は↓
また別の弟子(志太野坡)に依頼して、碑銘の書を建立しました。それがこちら【枯野塚】
贈られた辞世の句というのは↓
旅に病んで夢は枯野をかけめぐる
とのこと。
ここ【枯野塚】には「哺川」のお墓も一緒にあって、さらに↓
ここからわりと近くにある【称名寺】(↓)には
芭蕉句碑がありました。↓
さてところで。こちら【枯野塚】には
もう一つ興味深いお話があるんです。聞いてください。↓
17世紀の前半のこと。福岡藩主2代目の「黒田忠之」は、参勤交代の際に「采女(うめね)」という芸妓に出会いました。
忠之は彼女を大変気に入って、福岡に連れて帰ることにしたのでした
しかし周囲が大反対。わざわざ連れ帰ってきた「采女」だけれど、「忠之」は彼女を自分の側に置くことが出来ない。そこで↓
側用人の「浅野四郎左衛門」に「采女」を下げ渡したのでした
その「四郎左衛門」というのは↓
「四郎左衛門」は妻子持ち。妻の「お綱」と2人の子どもがいる家庭に、突然「采女」がやって来たという形。
しかも藩主が夢中になったほどの女性です。「四郎左衛門」も次第に「采女」にはまっていったのでした
つまり生活が壊れていきます。↓
しばらくすると「四郎左衛門」は妻子を東の地へ追いやり「采女」と暮らし始めることに
「お綱」と子供たちは捨てられ、次第に困窮することになりました。
娘のひな祭りすら祝ってくれないなんて!!いよいよ高まる「お綱」の苛立ち。
下男が「お綱」の気持ちを「四郎左衛門」に伝えにいったけれど、なんなく「采女」に追い返されてしまいました
屈辱と「お綱」への申し訳なさで、下男は自害。
この時「お綱」の心はプツンと切れてしまいました。
「お綱」はまず2人の子どもを刺し殺します。そして次に夫「四郎左衛門」のもとへ。
本宅に夫は不在。たまたまいたのが警備の「明石彦五郎」。「お綱」の不穏な空気を感じ取って、「彦五郎」は先に「お綱」へ切りかかりました
だがしかし。このままでは死んでも死にきれん。
なぎなたを手に血まみれの「お綱」。彼女の負った傷はかなり深く、城門にたどりついたところで息絶えたのでした
この門のことを『お綱門』と呼ぶんだそうですが、どの門なのかは定かではないらしい。↓
こちらの三の丸の『東御門』か↓
もしくは
東二の丸の『扇坂御門』なのか。
お話には続きがあって↓
「お綱」の怨念により夫の「四郎左衛門」は1年後に病死し、また警備の「彦五郎」は窃盗による拷問で刑死したのであった
とのこと。
そんな「お綱」が眠るお墓がここ【枯野塚】にあって↓
こちらの小さな二つは↓
「お綱」の二人の子どものお墓。
【枯野塚】
福岡市東区馬出5丁目9