お綱の気持ちと采女の気持ち【枯野塚】
東区馬出の住宅街の
民家の隙間に
『枯野塚』と呼ばれる石碑があります。
『枯野塚』は松尾芭蕉に関わるお話で知られているそうです。
17世紀の後半。
地元の俳人哺川が、芭蕉の弟子である向井去来に芭蕉の辞世の句を贈られました。
松尾芭蕉辞世の句
「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」
そのことに感激した哺川が、芭蕉のまた別の弟子である志太野坡に碑銘の書を依頼して建立したのが『枯野塚』です。
その哺川のお墓も同じ場所に。
そんな由来のある『枯野塚』ですが、もう一つ興味深いお話があるんです。
17世紀の前半。
福岡藩主の2代目黒田忠之は、参勤交代の折に采女(うめね)という芸妓に出会いました。
忠之は彼女を大変気に入って、福岡に連れて帰ることにします。けれど周囲の反対にあい、側に置くことが出来ません。
そこで側用人の浅野四郎左衛門に下げ渡したのでした。
四郎左衛門は妻子持ち。
妻お綱と2人の子どもがいる家庭に、突然采女がやって来たのです。四郎左衛門はだんだん采女にはまっていく。
日々の生活が壊れていきます。しばらくすると四郎左衛門は妻子を東の地へ追いやり、采女と暮らし始めることに。
そう、お綱と子供たちは捨てられたのでした。次第に困窮するお綱たち。
「娘のひな祭りすら祝ってくれないなんて!!」
お綱のそんな思いを胸に、下男が四郎左衛門宅を訪ねます。
が、采女にそっけなく追い返されました。屈辱そしてお綱への申し訳なさで下男は自害。
この時、お綱の心はプツンと切れてしまった。
お綱はまず2人の子どもを刺し殺します。
そして今度は夫のもとへ向かう。しかし本宅に夫は不在。
たまたまいた警備の明石彦五郎が、お綱の不穏な空気を感じ取って先にお綱へ切りかかります。「このままでは死んでも死にきれん」
なぎなたを手に血まみれのお綱。
ですが彼女の負った傷はかなり深く、城門にたどりついたところで息絶えたのでした。
この門のことをお綱門と呼ぶそうですが、どの門かは定かではないらしいです。
二の丸の東御門か
または扇坂御門が有力とのこと。
実は話には続きがあります。
お綱の怨念により、四郎左衛門は1年後に病死、彦五郎は、窃盗による拷問で刑死。
そのお綱が眠るのが、この『枯野塚』といわれています。
無念に眠るお綱のお墓。
この場所は見つけるのにかなり手こずりました。
一度知ってしまえば、なんということもないのですけど。
おうちの前で失礼しました!!
【枯野塚】
福岡市東区馬出5丁目9