だいたい第1話で全部語られている【太宰府天満宮11】

前回の続きです。↓

前回はといいますと、渡宋伝説で知られる【伝衣塔】を訪ねました。そして↓

説明書きで読んだ「藍染川」のお話に感銘。ああ生き返るって素晴らしい!と感動したのでした。こんにちは。↓

それでは引き続き太宰府の町を歩きます。

 

ちなみに今回で【太宰府天満宮】の散策はおしまいです。↓

さて『伝衣塔』前の通りを真っ直ぐ進むと↓

「国博通り」と書かれた碑が立っており↓

きちんと正面から見るとこんな感じ。↓

つまり『光明寺』から『伝衣塔』を訪ねてきた通りが「国博通り」ということらしく↓

このまま通りをさらに進んでいくと、出発地点の『西鉄太宰府駅』へ辿り着くようになっています。↓

碑のそばに案内プレートがありましたので↓

さっそく読んでみると↓

この一帯の地名は「溝尻」といいます。北から流れてきた溝が藍染川と合流し溝が終わることから名が付きました

溝っていうのはこちらの側溝!?↓

説明書きは続きます。また↓

江戸時代には宰府宿の4つの入り口に茅葺の土塀で出来た構口という宿場の境を示す施設がありました。ここ溝尻にも構口があり甘木・筑豊方面からの旅人で賑わったといいます

(※構口についてはこちらのお話も!↓)

そして↓

現在、土塀はなく庚申塔と恵比寿神が残されています

案内プレート隣りに立つ『斉藤秋圃旧宅跡』に関しては↓

この地は秋月藩御用絵師であった斉藤秋圃が隠居後に住んでいた所だよ

とのこと。ついでに地図で確認してみると、ちょっと気になる箇所があるんです。というのも、光明寺からの通りの名がここでは「浦町通り」と記載されているじゃないですか!?↓

あれ?碑には「国博通り」と記してあるけれど。どっち?まいっか!!気にしない。目を瞑って。無かったことにしましょう。↓

軽い足取りで通りをさらに進むと、駅の左脇を通る小道に出てきて↓

その小道を抜けると参道入り口へ。↓

こちらは駅前ロータリー。↓

ロータリーには碑がいくつか立っており、↓

その先には駅前交差点。↓

おもむろにロータリーから駅を見る著者。↓

あら駅前ロータリーそばにプレートがありますよ。今更だけど確認しておきましょう。↓

とかいってたら!さっきの謎が解けたのであった!!浦町通り(国博通り)の記載!!すっきり。他にも情報があって、↓

かつては、参道一の鳥居から「太宰府天満宮神域」とされていました。だとか、参道二の鳥居は筑豊の炭坑王伊藤伝右衛門の寄進です。だとか、延寿王院に五卿が三年間滞在しました。だとか

(※伊藤伝右衛門のお話はこちらでも!↓)

さらに↓

松屋は薩摩藩の定宿、大野屋は長州藩の定宿でした

などなど有益な情報が記されていました。でもね、実はこのプレート、

 

第一回目の時点でとっくにチェックしていたのだった。

いいのいいの。もういいの。

とにもかくにも、こうして見事に「始まり」へ戻ることができ、そして第1回目へとつながりました。これもまた縁もとい円、ついでに園も。おあとがよろしいので、この辺で終わりにします。↓

読んでいただきありがとうございました。


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【太宰府天満宮】

福岡県太宰府市宰府4丁目7-1