ちょっと生き返ってみたんだよ!!【太宰府天満宮10】
前回の続きです。↓
前回、太宰府天満宮参道の、その先に続く細い路地を進むうち、いつの間に【光明禅寺】へ辿り着いたのでした。↓
では今回も引き続き散策していきます。
お寺のすぐ前に案内板がありましたので、↓
さっそく読んでみるとこうありました。↓
文永10年(1273)、鉄牛円心が開山した臨済宗の寺院。こんな渡宋伝説が残されています。それは鎌倉時代中ごろのこと。菅神(菅原道真公)が禅の教えを求め、円爾(聖一国師・博多承天寺開山)のもとにあらわれました。菅神は円爾の勧めで宋に渡り無準師範の元で悟りを開きました
続きます。↓
菅神は再び円爾のもとにあらわれ、師範から授かった僧衣を託しました。その後、円爾の弟子の鉄牛円心のもとにあらわれた菅神は、その僧衣を一所に収め祀るように告げました
そのお告げにしたがって↓
僧衣を収めて伝衣塔とし、その傍らに【光明寺】を建てました
とのこと。また庭園に関する説明書きもあって↓
本堂表裏にある庭園は昭和32年に作庭されたもの。渡宋天神伝説に基づいて表現されています
だそうです。
山門を抜けてみると↓
今回は残念ながらクローズ。庭園は撮影禁止!↓
ですので、そのまま通りを先へ進むことにします。↓
振り返るとこんな景色。右奥に見えるのが【光明寺】。↓
少し先の左手に猿田彦の碑が立っており、↓
敷地の奥に鳥居が見える。↓
いったいなんでだろう。さっそくお邪魔してみると↓
そこにはなにかしらの碑と説明書きがあり、↓
読んでみるとこうありました。↓
藍染川と梅壺侍従蘇生碑。藍染川は謡曲「藍染川」の舞台であり、こんな恋愛悲話が残っています
それはこんな悲話。↓
昔、天満宮の社人である中務頼澄が京に上った時、梅壺という天皇に仕える女性と恋仲になり、梅千代が生まれましたが、頼澄は筑紫に帰ってしまいました
時が経ち↓
梅壺は父に成長した梅千代を会せようと太宰府へ来たけれど、頼澄の妻は会わせまいと追い返したのでした
その結果↓
悲しみに暮れた梅壺は、藍染川に身を投げて死んでしまったのでした
それを聞いた頼澄が天神様に祈ったところ、↓
梅壺は見事生き返ったのでした
良かった!!↓
鳥居扁額には「千八稲荷」とあって↓
さらに敷地の奥には、石碑!?と説明書き。↓
読んでみます。↓
伝衣塔。大宰府横岳の崇福寺にいた聖一国師の枕元に菅神が現れたという渡宋天神。そのお話しの中で伝えられている伝衣塔である
ちょっと離れて見てみるとこんな感じ。↓
(※大宰府横岳崇福寺のお話はこちらでも!↓)
さて、ここからさらに先へ進みますが、続きは次回に。最終回です。↓
【光明禅寺】
福岡県太宰府市宰府2丁目16-1