筑後川は全国河童の総帥「九千坊」のふるさと【河童】

ここのところ夏の暑さにぐったりですよ。もうやってられません。この逃げ場のない猛暑。

猛暑と云えば水、ですよね?そして水と云えば河童!河童といえば水天宮!ってことで、

以前訪ねた、久留米市に鎮座する「水天宮」のことを、熱帯夜のとある日に思い返していたのでした。こんにちは。

「水天宮」と云えば、全国河童の総帥「九千坊」のふるさと。凄くないですか。あの河童ですよ。

というわけで、「水天宮」を訪ねた際に知った河童のあれこれについてちょっと振り返ってみたいと思います。

境内すぐそば。筑後川が見える小路の脇にこんな説明書きが立っていて、↓

そこには、↓

九州一の長さを誇る母なる川「筑後川」。全国河童の総帥「九千坊」のふるさとでもあり、数々の河童伝説がある

と記されていました。数々の河童伝説!!ザ・ロマン。気になります。そこで詳細を知るべく図書館へ向かい、まず借りて読んでみた河童に纏わる本の第一冊目が、↓

書籍『21世紀の民俗学/畑中章宏』。では書籍内から、「水天宮」と河童にまつわるお話を一部参照させていただきます(久留米の記事に引き続き2度目の参照です。ありがとうございます)。↓

p40 久留米の水天宮は、壇ノ浦の戦いで敗れた平家の女官のひとりがこのあたりに落ちのび、入水した安徳天皇、建礼門院、二位の尼の霊を祀ったのがはじめとされる。

p41 水天宮の神使、河童の縁起物である「河童面」を水難、火除け、魔除けのご利益を信じて飾っているが、この河童こそ、筑後川沿いに鎮座する久留米水天宮の源というべき、水神信仰ゆかりのおまもりである

なるほど。河童というのは水神信仰であるとのこと。では次の書籍へ移りたいと思います。

美しいイラストが描かれた絵本『日本の川 ちくごがわ』。そこには河童についてこんな記述がありました。↓

水天宮。中国から河童がわたってきて、ここにおちついた、という話もあり、河童のふるさととして知られています。毎年5月5日には、竜の頭をつけた御座船がみこしをのせて筑後川をゆく、御神幸祭がおこなわれます

へえ、河童のルーツは中国なのか。あれ、そういえば西遊記(ドラマ)には河童の沙悟浄がいましたよね。岸辺シロー。そうそう!!

と思って、念のためwikipediaで調べてみると、↓

日本では河童とされることがあるが、それは水の妖怪というイメージからで、最初に流沙河の水中から現れたとする間違った解釈に由来する、日本の児童向け作品固有の意訳である

とありました。沙悟浄は河童じゃないっぽい。それはともかく河童伝説には中国ルーツ説があることが分かりました。お次の書籍はこちら。

先述の書籍『21世紀の民俗学』と同じ著者による『災害と妖怪 柳田国男と歩く日本の天変地異/畑中章宏』。その第1章「河童は死と深く結びつくということ」には、こんなお話がありました。(参照させていただきます。ありがとうございます)

p47 河童は畠の作物のなかでも、とくに瓜類を好み、夜中に出てきては食い荒らすといわれる。

p48 能登では「ミズシン」といい「水の神」からきているらしい。

p49 柳田国男は、河童はかつて「水神」として信仰を集めた神が、近世の都市で娯楽化され大衆に浸透したもの、とみなした

とありました。水神信仰のお話。さらに今度はこちらの書籍から。

『九州河童紀行/九州河童の会編』を読んでみました(参照させていただきます。ありがとうございます)。↓

p8 河童を日本文学に登場させたのは泉鏡花そして火野葦兵。4,5歳の子どもにみえ、頭はおかっぱにお皿があって水をたたえている。皿の水がエネルギー源。

p40 当仁小学校前の通りを黒門川通りという。その歩道に親子三匹の河童像。何故ここに河童があるのかというと、緑道を整備した際、水と生き物を演出したもの

まず黒門川の河童のお話が紹介されていました。こちらは以前訪ねたことがありますので、

当該記事から参照してみると、↓

せせらぎがっぱ。3匹の親子の河童は昭和63年、黒門川通りを整備するときに設置されました。お父さん河童は徳利を持ちお母さん河童は魚を持っています。この地方には昔から地行の「河童の松物語」があり、伊崎にいた酒好きの漁師嘉兵衛と酒好き河童のお話がモチーフとなっています

地行の河童の松物語!?気になりますねえ。語呂がいい。後ほど触れることになります。さて書籍からの参照は続きます。↓

p43 姪浜住吉神社。住吉三神は伊邪那岐命が小戸の阿波伎原で禊によって出現された。その際、神社の近くの小戸大神宮まで河童が道案内した。このことから本社の姪浜神社に河童祭が伝えられる

だそうです。(※姪浜住吉神社の河童についてはこちらの記事も是非!↓)

姪浜住吉神社も以前に訪ねたことがあって、その時に河童と深い関わりがあることを知りました。

それはこんな具合。

神話の昔、小戸の檍原(海岸)で伊弉諾の大神(住吉神社の父神)が禊ぎをされる時、海が荒れて困っていたところ、河童が現れ波静かな所へ導いていき、神様が安全に禊をされた際、流れ落ちる滴から住吉三神を始め多くの神々が生誕されました

これを知った人々は、とても御神徳の高い河童ということで、河童面をお守りとして祀るようになりました。これが河童面の由来

(※小戸大神宮のお話はこちらの記事で!↓)

さて、書籍に戻ります。今度は鷹取養巴と河童のお話について。↓

p47 鷹取養巴運松庵という外科医の妻が便所に行くと、毛むくじゃらの手が下からのびてきた。その怪物の手を切り取ると、夜更けに河童がやってきて返してくれと頼む。養巴は叱りつけ追い払うと、河童は泣いて憐れみを乞う。返してやると、翌朝、庭前の手水鉢に生きた鱸すずきが一尾

(※鷹取養巴についてはこちらの記事も!↓)

それから次に、伊崎の河童のお話。↓

p51 伊崎の舟子の嘉兵衛。漁をするもこの日は一尾もかからない。酒を飲んでいると、船の舷に手を掛ける河童が、私にも一杯飲ませてくださいと頼むも、嘉兵衛は怒鳴りつける。
酔いがまわって寝てしまった嘉兵衛。目を覚ますとそこは百道の砂浜で船は沖合に停まっている。舟まで着くと、さっきの河童が酒を飲んで寝てしまっている。河童を怒鳴りつけるとわびるので、嘉兵衛は許すことに。その後、不漁のときには必ず舟の中に魚を何尾も投げ込んだという

おやおや。伊崎の河童というのは、先述の黒門川通りの松物語のことらしい。ここで点と点が結びつきました。

それではいよいよ借りてきた最後の書籍、『河童の研究/大野桂』からも一部参照させていただきます(ありがとうございます)。

第2章「河童の起源」にはこんなお話がありました。↓

p33 1500年ほど前、中国黄河上流に棲んでいた河童の一族が海を渡り肥後に棲みついた。繁殖しあばれ回り田畑を荒し婦女子にいたずらをした。肥後藩主加藤清正は九州の猿を集めて河童を攻めさせたところ、河童は降参。久留米領主有馬公の許しによって筑後川に棲むこととなった。以降、久留米水天宮の眷属として仕えるようになった

という説があるそうです。(※久留米藩主のお話はこちらでも!↓)

ではまとめます。もしもあなたがばったり街で河童に出会ってしまったら。落ち着いて!慌てないでいただきたい。

 

まずポーチに入れておいた胡瓜で相手(河童)の気を引いてください。そして、

河童が油断したその瞬間、とにかくなんらかの手を使って用意した猿に命令を下し、河童をゴン攻めさせましょう。

そうすれば、あなたの尻こ玉をは奪われずに済むと思う。少なくとも勝率はぐっと高くなる筈。終わり。


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