唐津街道(一部)を辿ってみた17【姪浜住吉神社(完)】

前回の続きです。↓

前回はといいますと、訪ねてみたいなと思っていた『亀井南冥生誕の地』そして

『だるま堂』へ無事にたどり着くことができ、正直ほっとしていたのだった。こんにちは。

では今回も続きます。ちなみに一連の唐津街道シリーズ『唐津街道夏景色』、いよいよ最終回です。一部の区間ではあったけど長かった!

さて『だるま堂』から『唐津街道』へ戻ると、すぐのところに【姪浜住吉神社】が鎮座。

境内入り口前に、説明書きがありましたので↓

読んでみたいと思います。↓

住吉神社は奈良時代の天平年間(729-749)に建てられたといわれ、古くは北側の海岸近くにありました。室町時代に現在地に移転。航海安全の神さま。境内には「早安神社」「埴安神社」などの末社が数多くあります。また、伊弉諾の大神が「みそぎ祓い」をされる時、河童が現れ道案内のお手伝いをしたことにより、除災招福の神の使いになったという伝説があります

こちらが文永4年の姪浜。(説明書きに添えられた絵図より)↓

さらに『唐津街道』に関する説明書きも。↓

もちろん読んでみます。↓

唐津街道は江戸時代の主な街道の一つで、現在の北九州市小倉北区から佐賀県唐津市までの区間。福岡藩が長崎警備(2年に1回で佐賀藩と交代で警備)にあたる時や、唐津藩の参勤交代の時などに通りました。

続きます。↓

唐津街道は初めの頃は、小倉から福岡藩に入り、若松、芦屋、赤間、畦道、青柳、箱崎、博多、福岡、姪浜、今宿、前原、深江、浜崎を経て唐津に入っていましたが、後には小倉から黒崎、木屋瀬を経て赤間に至るコースになりました。

そして↓

唐津街道の宿場町の一つである姪浜宿は、福岡藩の茶屋(大名や幕府役人のための宿泊所、他の街道の本陣にあたる)が置かれたほか、漁業や海運業、良質の塩の産地として栄えました

では境内へ。↓

住吉宮の扁額。↓

社務所。↓

手水舎。↓

こちらに先述の河童!神の使い。↓

説明書きがありましたので↓

読んでみると↓

神話の昔、小戸の檍原(海岸)で伊弉諾の大神(住吉神社の父神)が禊ぎをされる時、海が荒れて困っていたところ、河童が現れ波静かな所へ導いていき、神様が安全に禊をされた際、流れ落ちる滴から住吉三神を始め多くの神々が生誕されました

続きます。↓

これを知った人々は、とても御神徳の高い河童ということで、河童面をお守りとして祀るようになりました。これが河童面の由来

とのこと。顔ハメパネルまで用意されています!君たちみんなまとめて、すみよしくんですか!?

 

子どもの顔ハメは出来ませんのでご注意を。無理やりあけたりしないで!↓

社殿。↓

振り返ってみると、こんな景色。↓

狛犬。↓

拝殿内をちょっと失礼します。↓

本殿。↓

境内の雰囲気。↓

境内奥には↓

ご神木。↓

読んでみますと↓

ご神木イチョウの木。漁師の帰港の目印となっていました。樹齢700年

「須賀神社」。↓

境内社。「早安神社」「埴安神社」でしょうか。↓

といったところで参拝はおしまい。境内を出てもう少しだけ唐津街道を歩いてから、一連のお話を〆たいと思います。例えていうなら返し留めみたいな。↓

通りをしばらく進むと↓

『唐津街道』は再び明治通りに合流し、ここから「今宿」へとさらに旅路は続きます。続くんだけれど↓

私は一足お先にさようなら。

長いお話でしたが、お付き合いありがとうございました。まじ感謝。

おしまい。

(※1話目から繰り返し読むならこちらで!↓)


【姪浜住吉神社】

福岡市西区姪の浜3丁目5-5