聖福寺の池があったから蓮池町という町名【博多善道寺】
以前のことですが、福岡市博多区の吉塚地区に『明光寺』を訪ねたお話をしたことがあります。↓
その『明光寺』は、現在の吉塚の地へと移る前の時代には、↓
寺町と呼ばれた「旧蓮池町」の【善導寺】隣にあったとききました。
今回、【善導寺】を訪ねてみましたので、そのお話をしたいです。こんにちは。↓
御笠川沿いにある【濡衣塚】そばの、
千代2丁目交差点から↓
東大橋を渡って、↓
まっすぐ明治通りを進み、↓
通り沿いにある蓮池のバス停の先の↓
右手のところに【明光寺】の山門があります。
ではさっそく山門をくぐって、境内へお邪魔します。↓
入ってすぐのところに案内板がありましたので↓
ざっと読んでみると、こうありました。↓
【光明山善導寺】は浄土宗鎮西派の寺院。寺伝によると、鎌倉時代に法然の弟子である聖光房弁阿(鎮西上人)によって創建
一時衰退したのちに↓
『筑後善導寺』の広誉上人によって室町時代に再興。文明11年(1479)、御土御門天皇そしてのちに大内義隆の祈願所になりました。江戸時代には黒田藩の保護を受けました
また↓
『筑前国続風土記』内には「宝物が国中でいちばん多い」と記されており、本尊の「木造善導大師立像」「木造鎮西上人座像」は室町時代の仏教彫刻として知られています
そして
境内には延文3年(1358)銘のある「蒙古碇石」、文化6年(1809)「梵鐘」があります
とのこと。こちらが境内の梵鐘で、↓
本堂。↓
「蒙古碇石」。↓
前回訪れた『大乗寺跡』にも
「蒙古碇石」がありました。どういうことなんだろう。↓
気になりましたので「蒙古碇石」について『福岡市の文化財』HP内で参照してみると↓
博多湾を中心として発見される特殊な考古資料。これらの碇石の年代を特定する資料はないが、供養塔に転用され、延文3年(1358)や正安4年(1302)の年号が彫り刻まれているものがある。
この事例から14世紀には他へ転用されていたことが想定され、二度にわたる蒙古襲来(1274年と1281年)時に、元の軍船に使用されていた可能性は高いが、平安時代以来頻繁に来航した宋の商船に装着されていた可能性も少なくない
ということだそうです。
こちらは「水子地蔵尊」。↓
また、境内隅っこのところには、旧町名『旧蓮池町』の石碑を発見。↓
ちなみに【善導寺】のあるこの地区は、もともと『聖福寺』の池があったことから「蓮池町」という町名がついていたのだそうです。終わり。
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【博多善導寺】
福岡市博多区中呉服町6-24