3500万年前はピンとこない【帆柱石】【縁の石】
今回もまた、福岡市東区にある【名島城址】を目指して、名島の海岸沿いをウロウロしていたのであった。こんにちは。
ここは『帆柱海岸通り』。
その名が示す通り、こちらの海岸沿いに「帆柱石」なるものがあるらしいんですけど↓
海岸には石がいっぱい!!だからどの石が「帆柱石」なのか、さっぱり分かりません。そもそも「帆柱石」とはいったいなんなのか。
この大正時代の帆柱石の風景写真を頼りに、散策がてら探してみることにしました。↓
『帆柱海岸通り』は、ここで突き当たるので、一度迂回しなくてはならず
ぐるっと廻ってもう一度海岸沿いへ戻ります。↓
すると小さな祠があって↓
そばに案内板がありました。↓
どうやら「帆柱石」はここからすぐそばにあるみたい。
とりあえず案内板を読んでみると↓
【帆柱石】は3500万年前の木の化石。珪化木とよばれています。神功皇后の『三韓出兵』(wikipedia→三韓征伐)において、凱旋した船の帆柱が、化石になったものであるという言い伝えもあります
とのこと。
海岸沿いはきれいに整備されていて、気持ちがよいです。↓
海岸から向かって右側を見てみると↓
そびえ立っている石があり、これが帆柱石かな?と思ったら、残念。
こちらは『帆柱石の碑』。碑ですよ碑。慌てないでいただきたい。↓
そばには、なぜかバスケットボールも転がっていたり↓
『太平洋大海戦大勝利』と記された戦勝記念の碑が立っていたり。↓
そして探し求めている【帆柱石】というのは、こちらの波打ち際に並ぶコロコロした円柱形の石だったのだ!!↓
見ていると、だんだんお菓子のコロンが食べたくなってくる不思議なフォルム。↓
それはさておき、この【帆柱石】。石なんだけど石じゃないんです。カシ属だけどお菓子じゃない。カシ属の木が珪酸で化石になって、それが9個並んでいるというわけ。
そんな【帆柱石】には、言い伝えがあって↓
3世紀頃のこと。「仲哀天皇」と「神功皇后」は熊襲討伐のために「橿日宮(香椎宮)」を訪れていました。その際、新羅を攻めよという神のお告げが。
「仲哀天皇」は意に介せず熊襲討伐を行い失敗し、のちに崩じたということです。
一方の「神功皇后」は熊襲を討伐しさらに新羅へ出兵。相手を降伏させることに成功します。その時の船の帆柱が化石となり「帆柱石」として今も残っています
という感じ。(※香椎宮にまつわるお話はこちらでも!↓)
「神功皇后」にまつわるお話には続きが。↓
ここから海岸沿いをさらに歩いた先に【縁の石】と書かれた案内板があって↓
私はおや!とか言って、そっとのぞいてみると↓
そこには大きな丸い石がどんと置いてある。↓
さっそく説明書きを読んでみますと↓
「神功皇后」は先述した三韓出兵の時期には妊娠中でした。身重の「神功皇后」が新羅への出征から凱旋し、よっこらしょと一休みに座った石がこちら【縁の石】
とのこと。
そういう言い伝えから、この石に祈ると安産や縁結びに効くというご利益があるそうです。
ちなみに「神功皇后」はといいますと、このあと、
福岡県糟屋郡の「宇美」へ向かい、「応神天皇」を出産することに。(※宇美八幡宮にまつわるお話はこちらで!↑)
さらにさらに「神功皇后」のお話には続きがあって、↓
「名島海岸」の「ココ」に見えるのが【砧板瀬(まないたぜ)】。こちらは「神功皇后」三韓出征の凱旋を祝って祝宴をひらいた場所だと伝えられます。波が気になるよ!!祝ってられないよ!!↓
さらにさらにさらに「神功皇后」のお話しがあるんですけど、それはまた次回に。↓
ご清聴ありがとうございました。
【名島海岸】
福岡市東区名島1丁目29