息子の葛子はしっかり者であろう【比恵遺跡】

先日、福岡市博多区の博多駅南にある【比恵遺跡】を訪ねてみましたので、今回はそのお話です。

訪ねたきっかけは、福岡市南区にある三宅小学校の隣に鎮座する『若宮八幡宮』。↓

福岡市南区の三宅地区には、かつて『那津官家』があったとかなかったとかいうお話があって、その中に【比恵遺跡】が出てきたんです。

ちなみに『那津官家』というのは、6世紀初めに筑紫国の那津口に設けられたという、大和朝廷の重要な外交拠点『官家(みやけ)』のこと、らしいです。

先述した三宅地区に鎮座する『若宮八幡宮』には案内板が立っていて、そこには↓

『日本書紀』によれば、那津(なのつ)の口に官家(みやけ)を修造、とあり、すなわちこれが『三宅』の地名の起こりと考えられてきた。だけど「那津官家」(大宰府の前身)の位置は近年の発掘成果から博多区の比恵遺跡に比定する考えが浮かんでおり、検討を要する

という記述がありました。それはつまり↓

三宅は那津官家かもしれないし、那津官家じゃないかもしれない

という感じっぽいんです。雰囲気で察して!みたいな。

 

そして今回、「三宅」よりもはるかに『那津官家』っぽいと推測されている【比恵遺跡】を訪ねてみることにしたわけです。↓

さて竹下通りをJR竹下駅から博多方面へ向かうと、通り沿いに空地みたいになってる一帯があって↓

ここが【比恵遺跡】である。実はね、今年の年始にも一度訪ねてたんだけど、その時は工事中でした。↓

場所でいえば、那珂川と御笠川にはさまれている立地。↓

案内板がありましたので、読んでみるとこんな具合。↓

日本書紀 宣化元年(536)条に、「那津(博多湾)の口(ほとり)に官家(みやけ)を造り建てよ」という記述があります。

官家とは大和政権による政治・経済・軍事上の拠点のこと。「屯倉」「三宅」などと表記されます

そして↓

かつて、那珂郡三宅郷(南区三宅)にあったと考えられました

からの!?

昭和59年(1984)そして平成12年(2000)の発掘調査の際、この比恵遺跡の地で3本柱の柵に囲まれた大規模な倉庫群が発見されました。この倉庫群は、きわめて国家的な施設だと考えられるのです

ようするに↓

この場所こそが、那津官家にふさわしいといえるでしょう!!

だそうです。

さて、現在はなにもない空地のようだけど、ひとまずぐるっと周囲を歩いてみることにします。

すると、こっち側にももう一つ案内板があったよ!↓

だから読んでみます。↓

比恵遺跡に多くの人が住み始めたのは2500年以上前の弥生時代。大和政権が九州地方を治めるため、那津の口(ほとり)に宮家とよばれる役所をつくったのが那津宮家の始まり。その役割はのちに大宰府へ引き継がれるのでした

イラスト!高床式倉庫!!↓

ぼんやりしない!!↓

右側は春住小学校。↓

【比恵遺跡】を金網ごしに鋭い目でチェックする私。↓

ところで、wikipediaの比恵遺跡の項などをあれこれ参照してみますと↓

【比恵遺跡】は弥生時代から室町時代におよぶ複合遺跡とされています。はじめに、弥生時代の環濠集落とされる住居跡が発見されました。

さらに古墳時代の倉庫群が発見され、これは大和政権が設置した、外交軍事拠点であり食糧を備蓄するための倉庫【那津宮家】であるだろう

ということみたいで、また南区若宮八幡宮の案内板には↓

大和政権が『磐井の乱』をおさえた後に、貿易・統一の拠点として官家を設立した

との記述がありました。その『磐井の乱』とは↓

6世紀の大和政権が、朝鮮半島の伽耶を新羅から奪い返すべく出兵しようとしたけれど、新羅と組んだ九州の豪族『筑紫君磐井』に反乱を起こされたもの(527年)

その翌年、磐井は鎮圧され敗死。息子の葛子はというと↓

糟屋屯倉(かすやのみやけ)を献上することによって許された

と日本書紀に記述があるそうです。↓

ちなみに筑紫君磐井のお墓は、八女にある岩戸山古墳で↓

【那津官家】はというと、ここ比恵遺跡から大宰府へとつながっていく的ロマンなのであった。


【比恵遺跡】

福岡市博多区博多駅南5丁目12