炭化米が見つかったから焼米ヶ原【大野城坂本登山口04】

前回の続きです。

前回といいますと、四王寺山の土塁跡を『増長天礎石群』から『太宰府口城門』まで駆け抜けました。↓

今回は、いよいよ【焼米ヶ原】を訪ねたいと思います。こんにちは。それでは元気にスタートです。↓

林道そばにある【焼米ヶ原】の駐車場を突き抜けて奥まで進むと↓

眼下にこんな景色が広がっています。↓

右に土塁跡がしばらく続き、そして↓

奥まで辿って進んでいけば、さっそく【焼米ヶ原展望台】へ到着です。↓

その手前の広場に案内板がありましたので↓

まずはこちらを読んでみたいと思います。↓

大野城跡、尾花地区。ここには10棟の建物の跡が残っている。これらは礎石が各建物の範囲内に碁盤目状に配置されており、床を人の背丈ほどに高くし、それらを柱で支える建物であった。このようなもので有名なのは東大寺の正倉院。大野城でも倉庫として武器や食料の備蓄のために建築されたのだろう

続きます。↓

10棟の建物は、ほぼ南北方向に5棟が一列に並び他の5棟もそれぞれ計画的に配置されている。建物の大きさは梁行6.3m、桁行10.5mで統一されている

とのこと。配置図と復元図。建物はS字のように配置されてるっぽい!?↓

「三十三体石仏めぐり」の案内、そして↓

こちらにも説明書きがありましたので↓

さっそく読んでみると↓

大野城跡と四王寺山。四王寺山の名で親しまれるこの山は昔、大野山とも呼ばれ、万葉集にも歌われています。665年にはこの山頂全体を城とする大野城が築かれ、大宰府を守る役目を果たしました。延々続く尾根はその時の土の城壁であり、ところどころに石垣や倉庫跡の礎石も残っています。のちに四王寺という寺も建てられました

かつては『大野山』だったんですって!知りませんでした。なんで名前変わったの!?そっちが気になります。それはさておき、↓

 

あちらのこんもりしたところに碑が立っており↓

ダッシュでそばに寄って見てみると、碑には『大野城「立」四王寺址』と記されておる。記されてはいるんだけど、真ん中の「立」みたいな字はなんて字なんですか!!

で、調べてみたところ、これは『站(たん)』、たたずむという意だそうです。勉強になるわあ。↓

そしてこちらには「三十三体石仏第5番 千手観音」の姿も確認。↓

ここからさらに広場奥へ進んでいくと↓

小高いところになにやら色々並んでいます。とってもごちゃごちゃしている雰囲気!ごちゃごちゃこそ幸福感!↓

まずはこちら。『玄清法印之墓』。↓

石碑には『天台宗玄清法流開祖』と記してあり、↓

以前、坂本地区に『玄清法印之墓』を訪ねたことがあります。↓

その時のお話をここでちょっと引用しますと↓

玄清法印は823年に入滅。しばらくはお墓の場所が判明せず、1834年に四王寺山の焼米が原に碑が建てられて

それから1901年、この地に【成就院】の跡が発見されたので、ここにお墓が建てられた、ということみたい

とありました。ちなみに、今回の登山時にも登山口への道すがら、すぐそばを通り過ぎてきました。↓

さらに丘を上っていくと、

そこは【焼米ヶ原展望台】であった。↓

どうですか。この眼下に広がるビュー具合は。怖いけど美しいです。アンビバレント。↓

展望台を下ってからも、土塁に沿って道なりに先へちょっと進んでみると、↓

すぐのところに「三十三体石仏第7番札所 如意輪観音」を確認。そして↓

「右へ下って行くならば、そこにも石仏ありますよ!?その上、水瓶山へと続きますよ!?」の案内も発見。でもそれはまた別の機会を待ちたい。↓

すると今度は左手に

「三十三体石仏第8番札所 十一面観音」の姿も。これはきりがありません。そこで↓

今回はこの辺りで引き返し、広場奥に広がる焼米ヶ原の森の中へ向かってみようと思います。

「三十三体石仏第6番札所 三宝荒神」。↓

そして焼米ヶ原の説明書き。↓

読んでみると↓

焼米ヶ原(宇美町大字四王寺)。ここから炭化して黒くなった昔の米が見つかっているので焼米ヶ原

とありました。歴史クラブのみんな、サンキュー。↓

やや薄暗い森の奥にも説明書きがありましたので↓

こちらも読んでみることにします。

尾花礎石群について。大野城跡に確認されている70棟ほどの建物跡の中で、最も山頂に近い位置にある礎石群。3間×5間の建物が同じ向きで10棟確認されており、そのうち1棟の礎石周辺には黒く炭化した米が今でもみられることから「焼米ヶ原」。平野部を見下ろせる眺望の地であり、建物群は食糧などの倉庫だったと考えられます

探せば黒い米が見つかる!?ロマンあふれて。春。2024。↓

ちなみに、以前訪ねた『宇美町立歴史民俗資料館』の館内には↓

焼米ヶ原に関して、こんな展示がありました。↓

読んでみます。↓

焼米ヶ原では今でも黒く炭化した当時のお米を拾うことができます。黒くなっているため、江戸時代の人が焼けた米と思い、焼米ヶ原の名前がついたと考えられます

といったところで、そろそろ下山のお時間となりました。↓

帰り道は、いくつかあった「政庁口ルート」の一つを試してみますね。↓

わりと下りは快適な山道で、最終的に『玄清法印之墓(坂本地区)』そばへ辿り着くことになりました。

ここは、登山上り口からやや下った場所、かつ、登山時に見たこちらの看板が架かっていた場所。そこから推測するに、↓

『大野城の大石垣』を通らなかったぶんだけ、下りのルートのほうが近道になったかも。とにもかくにも、以上で、四王寺山登山(坂本登山口)はおしまい。

今回の総括としては「石垣」と「土塁」の魅力に気づかされた登山といった感じ。ご清聴ありがとうございました。

終わります。


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【焼米ヶ原】

福岡県糟屋郡宇美町四王寺126