埋もれぬ名をや岩屋の苔の下水【大野城坂本登山口03】
前回の続きです。↓
前回、四王寺山の土塁を反時計回りに歩き続け、ようやっと【増長天礎石群】までやってきました。↓
今回はといいますと【焼米ヶ原】と呼ばれる区画を目指して、引き続き先へ進んでいきたいと思います。こんにちは。↓
境界標。↓
休憩所というか東屋を発見。↓
外の景色はこんな具合。↓
そうこうしていたら、すぐ目の前にアスファルト。タイヤを!?切りつけながら!?
寒い冗談はさておき、山道は目の前の林道で途切れることに。↓
そしてその先には案内地図と駐車場のスペースが。こんな高いところまで車で来ることができるなんて!知りませんでした。
例えば山の史跡を限定的に見て廻りたい人にとっては、車の使用が絶対便利だと思う。
ではここで大まかに地図を確認しておきます。車で来る場合、見た感じでは太宰府からのルートが近そうですが、くれぐれも事前にお調べ願います。↓
注意書きもしっかりチェック。↓
駐車場のすみのところにも説明書きがありましたので↓
こちらも読んでおきましょう。↓
大野城。頂上域全体囲むように土や石の城壁を巡らし、その中に建物を建てました。約70棟の建物跡が見つかっており、そのほとんどが高床の倉庫と考えられます。城壁は総延長が約8km。現在、9ヶ所の城門(出入り口)が確認されています。同時に築かれた基肄城、前年に造られた水城とともに大宰府地域を守る役目を果たしました
続きます。↓
城壁の尾根の部分には土塁、谷の部分には石垣を築いています。高床倉庫があった場所には、現在、礎石(柱が立っていた石)だけが残っています。倉庫内には米などを収納していたと考えられます。この近くの倉庫群跡(尾花礎石群)周辺からは炭化した米が見つかったため、焼米ヶ原とよばれています
焼米っていうのはチャーハンのことではなく、炭化した米のこと。でもなんで炭化!?時の流れがそうさせたのか、焼いたものが今も残っているのか。
そしてこちらは、説明書きに添えられた「山城の各地区が記された地図」そして↓
大宰府防衛網のイラストも。↓
また小さな説明書きの方には、↓
こういったことが記されていました。↓
1350年前、朝鮮半島からの亡命貴族らとともに自然地形をいかして築造された古代山城。百済の都・扶余の扶蘇山城に例えられ、水城城とともに百済系都城の姿を今に伝える
それではこれから礎石群へと向かうわけですが、その前にちょっと待って。チョトマテクタサイ。↓
駐車場裏手になにかありそうな雰囲気プンプンなので↓
寄ってみることにします。するとそこには大きな石碑が立っていて↓
どうやらこれは『高橋紹運の辞世の句』であるらしく↓
流れての 末の世遠く 埋もれぬ 名をや 岩屋の 苔の下水
という句が記されていました。(高橋紹運のお話はこちらでも!↓)
石碑のある高台から見渡してみると、あちらの方向が『焼米ヶ原』なんですが↓
その前に、石碑から反対方向へ少し進んでみる。すると↓
そこには『太宰府口城門』の案内があって↓
さらに奥にはなにかしらの碑。なんて書いてあるんです!?分かりません。↓
とにかく、城門の案内に導かれて進んでみることにします。9つあるという門のうち2門目となりますね。それからそのまま草地を下ってみたら、↓
もりもり森って感じのところに↓
城門礎石、そして↓
説明書きがありましたので↓
読んでみるとこうありました。↓
大野城は現存する古代山城のなかでは記録に見える古代最古の城。大野城には4ヶ所の城門が知られています。南側(大宰府側)には3ヶ所。そのうちの一つが太宰府口城門。この城門に接して左手には、谷筋から侵入してくる敵を拒むように築かれた石塁(水の手口石塁)が、右手には焼米ヶ原に延びる土塁が築かれています。大宰府政庁側に位置し、規模が最も大きいことから、大野城正門ではないかと考えられています
とのこと。こちらは城門の復元イラスト、さらに↓
太宰府口城門の全体図。↓
真ん中が門の跡で、左手に石塁が続くといった感じのようです。↓
城門跡のさらに奥には旧道へつながる道も延びていました。↓
それでは、土塁側を辿って駐車場方面へ戻ることにします。↓
するといきなり鳥居が立っており、扁額には「毘沙門天」!?かな。違う!?↓
その鳥居を抜けた先に引き続き土塁が続くという形になっています。↓
だいぶ長くなりましたので、今回はここまで。お疲れ様でした。
次回が最終回です。よろしくお願いします。↓
【太宰府口城門】
福岡県糟屋郡宇美町四王寺126