埋もれぬ 名をや 岩屋の 苔の下水【太宰府口城門】

前回の続きです。↓

前回、四王寺山の土塁を反時計回りに歩いて【増長天礎石群】までやってきました。

今回も引き続き、【焼米ヶ原】を目指して歩きまわりますよ。こんにちは。

境界標。↓

休憩所があったり↓

外の景色はこんな具合。↓

そうこうしていると、目の前にアスファルトが。タイヤを!?切りつけながら!?

寒い冗談はさておき。目の前を林道が横切っているじゃないですかあ。↓

そしてその先には案内地図と駐車場。なんと、こんな高いところまで車で来ることができるなんて!知りませんでした。この駐車場は

例えば、山の史跡を限定的に見て廻りたい人にとっては、とっても便利ですよね!?

大まかに地図で確認してみると、車の場合、太宰府からのルートが近そうです。↓

とにかくご注意ください。↓

さて駐車場のすみっこに説明書きがありましたので↓

まずは読んでみたいと思います。

大野城。頂上域全体囲むように土や石の城壁を巡らし、その中に建物を建てました。約70棟の建物跡が見つかっており、そのほとんどが高床の倉庫と考えられます。城壁は総延長が約8km。現在、9ヶ所の城門(出入り口)が確認されています。同時に築かれた基肄城、前年に造られた水城とともに大宰府地域を守る役目を果たしました

続きます。↓

城壁の尾根の部分には土塁、谷の部分には石垣を築いています。高床倉庫があった場所には、現在、礎石(柱が立っていた石)だけが残っています。倉庫内には米などを収納していたと考えられます。この近くの倉庫群跡(尾花礎石群)周辺からは炭化した米が見つかったため、焼米ヶ原とよばれています

とのこと。焼米っていうのはチャーハンのことではなく、炭化した米のこと。でもなんで炭化!?時の流れがそうさせた!?良く分かりません。

こちらは、説明書きに添えられた、山城の各地区が記された地図。そして↓

大宰府防衛網のイラスト。↓

また小さな説明書きの方には↓

こういうことが記されていました。↓

1350年前、朝鮮半島からの亡命貴族らとともに自然地形をいかして築造された古代山城。百済の都・扶余の扶蘇山城に例えられ、水城城とともに百済系都城の姿を今に伝える

とのこと。さて、これから礎石群へ向かうわけですが、その前にちょっと待って。

駐車場裏手になにかありそうな雰囲気プンプンなので

しばし寄ってみたいと思います。するとそこには石碑が立っており

高橋紹運の辞世の句である↓

流れての 末の世遠く 埋もれぬ 名をや 岩屋の 苔の下水

が記されていました。(高橋紹運のお話はこちらでも!↓)

この高台から見ると、あちらの方向が『焼米ヶ原』なんだけど↓

その前に、石碑から反対方向へ少し進んでみると↓

そこには『太宰府口城門』の案内が。↓

さらに奥にはなにかしらの碑。なんて書いてあるんです!?分かりません。↓

とにかく、城門の案内に導かれてみることにします。そのまま草地を下ってみたら↓

もりもり森って感じのところに↓

城門礎石、そして↓

説明書きがありましたので↓

読んでみたいと思います。↓

大野城は現存する古代山城のなかでは記録に見える古代最古の城。大野城には4ヶ所の城門が知られています。南側(大宰府側)には3ヶ所。そのうちの一つが太宰府口城門。この城門に接して左手には、谷筋から侵入してくる敵を拒むように築かれた石塁(水の手口石塁)が、右手には焼米ヶ原に延びる土塁が築かれています。大宰府政庁側に位置し、規模が最も大きいことから、大野城正門ではないかと考えられています

とのこと。こちらは城門の復元イラスト、さらに↓

太宰府口城門の全体図。↓

真ん中が門の跡で、左手に石塁が続くといった感じのようです。↓

城門跡のさらに奥には旧道へつながる道もありました。↓

といったっところで、土塁側から駐車場方面へ戻りましょう。

すると鳥居が立っており、扁額には「毘沙門天」!?かな。違う!?↓

そしてその鳥居を抜けた先に土塁が続くという形になっている。↓

今回はここまで。お疲れ様でした。

次回が最終回です。よろしくどうぞ。

【太宰府口城門】

福岡県糟屋郡宇美町四王寺126