パリオリンピックに寄せて一言【新・大土居水城跡】
先日、福岡県春日市のいけいけ通りをすごい勢いで駆け抜けていたんですが、あれ妙な違和感が心の中に。なんだか物足りなさを感じます。えなにこれ。
心もとない。落ち着かない。なんだろうと思ったところで、さっそく気が付いてしまったのでした。こんにちは。
ほら、例の看板がないじゃん!あのでっかい大土居水城の看板が撤去されています。え、これは悲しみ。
そう、以前訪ねた時には健在だったあの立派な看板がどこかへ行ってしまった。↓
ずいぶん長いこと訪ねていない間に、ここ大土居小水城跡では改装が行われていたらしく(以前の姿↓)
土塁の斜面もきれいになっているような気がします。それはいいとして、なんで看板が!大土居地区のシンボルじゃないか!とは言っても、確かに昭和感のあるレトロな感じの看板デザインで、
悪く言えば古臭い。おそらく改装チームは、新しい大土居水城跡を提案したい、そういう情熱を持って作業に取り掛かったのでしょう。
そうなると、あの看板はたしかに取扱いが難しいですよ。伝統と革新。
きっと、この通りを毎日通る春日人たちも、あれ、最近なんだか物足りない、だのに理由が分からない。そういう不調に陥っていたのかもしれません。夏バテかな。
いえいえ。ノンノン。夏バテじゃないよ。それは看板不足のせいだったんです。とかいう冗談はさておき、
せっかくですので、改装された新大土居水城跡を見学してみたいと思います。
おやさっそく立派な説明書きが立っている。
土塁の構造について。下成土塁の上に上成土塁が造られている形。↓
では説明書きを読んでみます。
上成土塁のほぼ中央に黒色土塊が縦方向に重なります。これを境に土の質が異なります。土塁は内部を棒で突き固めながら積み上げる「版築」という方法で築かれています。その痕跡の凹凸が確認されました
とのこと。さらにこちらには立体的なかっこいい説明書きが。↓
ざっくり読んでみるとこうありました。↓
水城跡は天智天皇3年に築かれた防衛施設。土塁と土塁の外側に並行する濠からなります。水城跡(大水城)の大きさは土塁横断面の幅約80m、高さ約10m、長さ約1.2km。また小丘陵間の谷あいには小水城が築かれました。春日市内には大土居水城跡と天神山水城跡
(※天神山水城跡のお話はこちらで!↓)
説明書きはもう少し続きます
大土居水城跡は土塁横断面の幅約40m、高さ7m以上、東西方向の長さ約110m。土塁の基底部にはスギやクスノキの板を組み合わせた木樋(木製導水管)があり、現在、県道の下の現地保存されています
とのこと。木樋の在りし日の姿。↓
ちなみに『奴国の丘歴史資料館』には木樋のレプリカがありました。↓
そして大土居小水城と現在の様子を照らし合わせた図。赤線は勝手に追加しています。↓
ではそのまま水城跡の土塁へ入っていきます。↓
階段を上った先は、特に変わってないような感じもしたけど、
ただ私が気が付いてないだけかもしれません。
ではお次に、土塁が分断されたいけいけ通りの向かいへ渡ってみます。↓
するとそのさらに反対側の小さな通りに説明書きを発見。
さっそく読んでみると
こうありました。↓
664年、唐・新羅による博多湾からの侵攻に備え、福岡平野を遮断する長さ1.2キロの水城が築かれ、その西側にはいくつかの谷を塞ぐように小規模の水城がつくられます。ここもその一つ。朝鮮半島からもたらされた技術で、長さ約110mの土塁と幅約40mの外濠が造られ、西側の天神山水城跡とともに、防衛線を形成しています
とのこと。そしてこの通り右側に流れるのが
先ほどの説明書きにもあった「諸岡川」。↓
流れゆくその様子を眺めていたら、
ふとこんな光景があたまをよぎったのでした。聞いてください。
姿を消したあの大土居水城の看板は、改装都合によって打ち捨てられたのではなく、風に舞って諸岡川に落ちたのかもしれない。
そして諸岡川をゆらゆらと流れ、途中で御笠川に合流し博多湾へ注ぎこみ、それから海を漂流して、フランスはマルセイユの港へ。
通りがかった聖火ランナーが何これとか言って拾って担いでパリまで走り、オリンピックの開会式で、なんの看板だか良く分からないまま両手で掲げるその瞬間。ついに世界デビューだ。
だから看板はパリに在り。
【大土居水城跡】
福岡県春日市昇町8丁目