富豪之輩といわれた大宰府住人たちよ【客館跡01/02】

先日のこと。↓

「太宰府天満宮」から「榎社」までをつなぐという『どんかん道』を辿ってみたお話をしました。↓

その道は最終的に『榎社』へと辿り着き、↓

久しぶりの『榎社』を見て、ああずいぶん久しぶりだなあと思いながら、↓

そのまま辺りをブラブラうろついていると、↓

線路沿いすぐのところに、こんな説明書きを見つけたのだった。↓

さっそく読んでみると↓

榎社周辺の遺跡。ここは古代都市『大宰府条坊』のほぼ中央に位置します。この付近は大宰府政庁から南下する中央大路が通っていました。都の朱雀大路に相当するもので、奈良時代初めに造られたとされています

そして↓

その幅は約36m。外交施設などを出迎える際に必要な広さだったといわれています。平安時代後期には半分の幅になるけど、それでもだいぶ大きな道路である。

地図もありましたのですかさずチェック。!↓

参照はもう少し続きます。↓

中央大路の東西には、道路で区割りした都市空間が広がり、当時の宅地内にはごみ穴もあったようだ。また、貴重な陶磁器類も多く出土しており、平安時代に「富豪之輩」といわれた大宰府住人たちの実態に迫ることができます

なるほど当時の外交使節団は西門を通ったあと、この辺りまでやってきて、

そしてここからのびる「中央大路」を通って「大宰府政庁」へ向かったのだと。そういうことみたい。

 

さて線路に沿ってそのまま進んでみたら↓

向こうの先に「西鉄二日市駅」の姿がかすかに見えて、↓

手前のこちらに大きな広場が広がっています。この広場が【客館跡】。↓

え?広場になにもない?なくなくない?ほんとになにもないのかな。↓

いやいやいや。

広場のすぐ脇を、西鉄電車が今日も元気に駆けていく。そして説明書きを発見。↓

また、足元には「東西道路跡(十四条路)」のプレートもありました。↓

では説明書きを読んでみたいと思います。↓

ここは客館の中の北西エリア。建物2棟、倉庫1棟、井戸の跡などが見つかりました。井戸跡が密集しており、また高級食器・容器の出土から、外国使節に食事を提供した場所ではと考えられています

なるほど!それはともかく「客館」とはいったい!?なにごとなんです!?

 

さきほどの説明書きによりますと、この辺りは「中央大路」って書いてあった気がするけど、客館?

地図を見るとこんな具合。↓

向こうにある『榎社』からこちらへやってきました。↓

「大型建物跡(北棟)」。↓

説明書きがありましたので↓

読んでみますよ。↓

ここは客館の中枢エリアです。南北に並ぶ大型建物跡が見つかりました。大型建物はいずれも8世紀前半に建てられました。これは天平4年(732)の「造客館司」(客館を造る役所)設置と関わりがあるようです

そして↓

8世紀末に南館が廃し、9世紀中ごろには北館も廃されました。その後は、長い間畑であった

イメージ図。↓

位置はこんな感じ。↓

写真で見ると、いっそう分かりやすいです。↓

大型建物跡(南棟)。↓

で!結局のところ!【客館】とはいったいなんなのか!?

答えは次回に!?よろしくお願いします。↓


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【客館跡】

福岡県太宰府市朱雀3丁目13