那珂川シティは今日もいい感じ【那珂川裂田溝03/03】
前々回、前回の続きです。↓
これまで2回に渡り、福岡県那珂川市の山田地区を訪ね、そして、うねうね延びる『裂田溝』を辿り歩いて、↓
【裂田神社】の前までやってきました。
福岡県那珂川市に古くから残る、農業用の人工用水路である『裂田溝』。
今回は【裂田神社】を起点に、さらに『裂田溝』を辿っていこうというお話をしたいです。こんにちは。
こちら【裂田神社】拝殿。↓
拝殿内には奉納絵馬も。↓
改修祈念の碑。↓
そして狛犬。↓
狛犬の後ろに「裂田の溝ものがたり」と書かれた説明書きがありましたので。↓
ふんわり読んでみたいと思います。↓
はるか昔、安徳村にある大きな台地(安徳台)近辺には竪穴式住居が集まり、多くの人々が暮らしていました
それから時を経て↓
新羅との戦いのため、神功皇后が安徳村にやってきました。神功皇后は戦いに勝利し、安徳村へ戻ってきて、神々へお礼をするため「現人神社」におまいりしたのでした
(※現人神社の記事はこちらで!↓)
そして↓
「神様へお米を捧げるために、神功皇后が神田を開くらしい」という噂が村に流れました。そこで村人たちは畑へ水を引く溝を作る大工事を始めたのでした
ですが↓
大岩が立ち塞がって、工事が進みません。そこで皇后は家来の「武内宿禰」に命じて、岩をなんとかしてくれるよう神に祈ったのです
すると↓
大岩に雷が落ち、大岩は見事に裂けたのであった。こうして安徳村には豊かな水田ができ、この辺りは「とどろきのおか」そしてみぞは「裂田の溝」と呼ばれるようになりました
そして↓
それから1600年もの間、那珂川に在る7つの村「山田」「安徳」「東隈」「仲」「次郎丸」「松井」「今光」を潤し続けています
他にも説明書きがあって↓
「安徳台」は奴国の拠点集落のひとつです。日本書紀には「とどろきの丘」そして江戸時代には「御所ヶ原」とも記されています。また「岩門城」は標高195mの山頂に築かれた山城。延久5年(1073)に完成。中世の博多や大宰府を警備する軍事的重要拠点であり、旧那珂郡随一の歴史を誇る山城です
とありました。
あれが多分「岩門城跡」(↑)の山。↓
水路に沿ってさらに先へ進んでいくと↓
用水路はなんだか姿を変えて、
まるでちょっとしたアトラクションのような、いい感じの雰囲気を醸し出し始めるのであった。↓
ほら!↓
からの、ほら!↓
全部独り占めしてます。楽しい!!↓
振り返ると、こんな景色。↓
さらに進むと、前方にあずま屋が。↓
ここは「カワセミ公園」というらしく、休憩所とお手洗いがあって↓
そばに説明書きもありましたので、↓
さっそく読んでみるとこんな具合。↓
日本書紀に登場する「迹驚岡」は現在「安徳台」と呼ばれています。阿蘇山の大噴火による火砕流堆積によってできたものです。この場所は『裂田溝』のお話だけでなく、弥生時代中ごろの大型住居や首長の墓も見つかっています
また↓
台地上には、中国の歴史書「魏志倭人伝」に登場するクニの一つ「奴国」を支えた大集落があったことが分かりました
さらに↓
平安時代に都を逃れてきた安徳天皇が「仮御所」を構えた場所とも伝えられています
この地には歴史がぱんぱんに詰まっているようです。↓
ちなみに『裂田溝』はといいますと、この先もまだまだ続くみたいなんですが、
きりが良いので今回はここまで。続きはまたいつかどこかで。↓
おつきあいありがとうございました。那珂川シティはすごかった。終わり。
【カワセミ公園】
福岡県那珂川市安徳66