楢柴肩衝という名前がすでにいい【島井宗室屋敷跡】
福岡市博多区の中呉服町。御笠川が流れるすぐそばの、昭和通り沿いの脇のところに、偶然小さな石碑を見つけたんです。↓
おやまあと近寄ってみると、石碑には【島井宗室屋敷跡】と刻まれています。↓
なるほど、この場所にかつて島井宗室さんのおうちがあったということだけど、不勉強ですので島井さんを知りません。
そこでさっそくネットで調べてみたんです。今回はそのお話。↓
(wikipedia内の島井宗室の項を参照。)
島井宗室は『博多の三傑』と呼ばれた豪商で、戦国時代から江戸時代にかけて活躍した人物です。当時博多を支配していた大友宗麟との取引でその地位を確立していきました。
その大友氏が没落し島津氏が台頭してくると、自分の立場を危惧して上洛。織田信長に謁見し保護を求めたのでした
その信長と交わした保護の条件の一つが、伝説の茶器『楢柴肩衝』だともいわれているそうで、↓
楢柴肩衝(ならしばかたつき)は天下三肩衝と呼ばれた茶器。もとは足利義政の所有物だったが、島井宗室が手に入れる。織田信長もこの名物を欲しがり、商売の保護を条件に献上するように宗室に命じたとされる
それからのち、本能寺にて信長との謁見した島井宗室は、宿泊中になんと「本能寺の変」に巻き込まれてしまいます。これは熱い!!(ダブルミーニング)↓
そして燃え盛る本能寺から逃げ出す際に、なんと信長の所有である空海直筆『千字文』をちゃっかりしっかり持ち出したのでした。↓
また、↓
信長の死後、今度は豊臣秀吉の保護を得て島井宗室は栄華を極めていくことに。
江戸時代に入ると家康に冷遇されましたが、黒田長政の福岡城築城の際にはその有り余る財力をもって協力したといわれています
そののち、元和元年(1615年)8月24日に死去。墓地は『崇福寺瑞雲庵』にあるとのこと。↓
(※崇福寺のお話はこちらでも!↓)
なんとも波乱万丈な豪商の人生ですね。
ちなみに島井宗室の屋敷(つまりここ!?)にあったといわれる博多塀(べい)は、
現在『櫛田神社』の境内に再現保存されていて↓
また本能寺から持ち出したという空海直筆の『千字文』のほうは
現在『東長寺』(↑)に保管されているとききました。↓
(※東長寺のお話はこちらでも!↓)
さらに、気になる茶器『楢柴肩衝』はといいますと、↓
のちに秋月種実が手に入れたあと豊臣秀吉へと献上され、秀吉の死後は徳川家康に授けられたけれど、明暦の大火で破損してしまいました。
修理に出され修繕されてから、なんと行方不明になってしまったのだ!!
そんなお話。
【島井宗室屋敷跡】
福岡市博多区中呉服町7