堰を切るその渾身の一手にかかってる【老司井堰】

少し前のことになるんですが、福岡市南区の那珂川沿いをアンニュイな雰囲気で歩いていたんです。そしたら

通り左手に案内板が立っていたので

さっそく読んでみると、こうありました。↓

老司付近を歩きまわったナウマン象。30万年前から1万5千年前に陸続きだった朝鮮半島から渡ってきた帰化象。昭和26年、那珂川の警弥郷橋下流付近でナウマン象の臼歯が採取されました

老司というのは福岡市南区のこの近辺の地名のことで、ナウマン象のナウマンは人の名前なんだそう。

案内板のすぐそばには、件の『警弥郷橋』が架かっており、この橋の下辺りで化石が発見されたということみたい。

ではこのまま橋を横切って、さらに川の上流へ向かって散策してみようと思います。こんにちは。

たっぷり流れる二級河川『那珂川』。↓

上流14キロのところには『南畑ダム』がありますよと。↓

ここを右へ進めば川沿いの遊歩道。一方、左へ進むと↓

その道は、以前訪ねた『警弥郷警固神社』や『弥永脊振神社』がある警弥郷地区へと続くんですが

今回は川沿いの散策なので右方向へ向かいます。

「弥永西ふれあいウォーキングロード」。↓

遊歩道少し先には、川の中にどどどっと並んだ、やたらかっこいいレトロフューチャー謎建造物の姿が。↓

これなんなんです。いったいなにが起こってるんです。迫力があるそのフォルムをあとに、引き続き先へ進みます。↓

遊歩道はきれいに整備されていてとても快適。

少し奥へ入ったところには『地蔵堂』を確認。寄ってみることにしましょう。

『延命地蔵菩薩』と記されていて

赤いのぼりには『不動明王』。

失礼します。↓

地蔵堂からそのまま川沿いへ戻り、そよ風に吹かれながらぼんやり歩いていると

那珂川に再び橋が架かっている。橋の名は『老松橋』。

そうです、老松。通りを右へしばらく進んでいけば、ゆるやかな上り坂が続いた先に

こちらも以前訪ねたことのある『老司古墳』『老司瓦窯跡』それから↓

『老司大池』『老司老松神社』があるという、そんな老司地区界隈までやってきました。↓

今回はこの橋でUターンをし、川の向かい側を引き返して歩くことにします。

すると、先ほど通り過ぎた謎建造物のそばに案内板を発見!

さっそく読んでみると↓

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦勝功労大なりと、黒田長政が筑前国主となり、福岡城(舞鶴城)が完成しました。城郭は東に那珂川、西に金屑川を境に北に海、西の入り江を大きな濠にして周辺立地をうまくとりいれました。更に開戦に備える用意に次の例があります

こちら「金屑川」に架かる「飛石橋」の写真。(一昨年撮影しました)↓

さて説明書きは続きます。「開戦準備の例」というのはまず↓

1.大名1丁目西鉄グランドホテル前近くに見られる急カーブ。築城法にいう四折枡形町割りの仕掛けとなっている。戦争時、道路の一方を急造の家などでふさぎ、敵軍を城下町に入れないトリック

名前がかっこいい。四折枡形町割り。説明も記されていて↓

読んでみるとこうことらしい。↓

四ツ角をわざとギクシャク食い違わせ、いざ戦争のとき中心点の道路の一方をふさぐ。敵軍はそのまま別の道に逸れて城下町に入れない

ナイスアイデア。西鉄グランドホテル前の様子(去年撮影)もどうぞ。どうでしょうか。ギクシャク食い違ってそ!?↓

「開戦準備の例」はもう少し続きます。2つ目と3つ目がこちら。↓

2.海に面した寺院15はいつでも兵站基地になった。3.老司の堰を切って落とせば低地部は水浸しになって侵入者を阻んだ

「兵站基地」というのは「戦争に際して、兵器や糧食といった物資を集積した場所」の意だそう。↓

説明書きに添えられた明治時代の堰の図。↓

では先へ進みますね。↓

二手に分かれた木の下に『大日如来』。↓

その向かいには堰の橋脚っていうんですか、そういうのがあって↓

そこに『老司井堰再建の碑』。↓

メカニカルな雰囲気たっぷり。↓

部屋の中に入って堰を切ってみたい。(開戦準備その3より)↓

それはともかく、先人の賢人による戦略的な考え方に感服いたしました。でも一つ気になることも。

侵入を阻むためとはいえ、街中水浸しにするのはまずくないです!?田んぼも畑も民家もびちゃびちゃ。

え!?だいじょうぶそ!?そなの!?おわり。


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【老司の堰】

福岡市南区老司2丁目5-11