桜はチルよ散るこの雨でもう見納め【野方遺跡】
先日【野方遺跡】を訪ねましたので、そのお話をしたいです。こんにちは。
以前『飯盛神社』を訪ねた際↓
飯盛の交差点にいくつか案内が出ていて
左へ進めば『金武古墳群』そして
反対の右へ進めば【野方遺跡】と記してありました。
後日、左の『金武古墳群』は訪ねてみたけれど、
右方面はそれっきりそのままになっていましたので
今回行ってきたんだよ、ねえみんな!のご報告である。
ではさっそく向かいます。交差点を真っ直ぐ進むと右手に『西部運動公園』がちらっと見えていたり↓
(※『西部運動公園』を訪ねたお話はこちらで!↓)
また左手にはいい感じの水路が流れていたり。↓
さらに進んだ先には野方交差点。ここで左へ曲がります。↓
「野方川」にかかる「ぼうめ橋」を渡ったら↓
またまた左へ曲がります。大きな案内も出ていますから!安心してください!
すると左手通り沿いに『野方中央公園』入り口があって、入り口すぐのところに多目的広場が広がっています。
で、こちらの公園内には↓
【野方遺跡】もあるんです!!という形になっているらしいんです。楽しみ。↓
ちなみに【野方遺跡】に関する知識ゼロの状態で恐縮ですが、順にゆっくり見学していきたいと思います。分かんなくてもいいよいいよ。↓
さて入園するとすぐのところに案内図がありましたので、すかさずチェックします。↓
どうやら右側部分が【野方遺跡】らしい。記された説明書きを読んでみると
こうありました。↓
野方遺跡は弥生時代後期(今から1800年前)から古墳時代前期(今から1700年前)の人たちが生活を営んだ場所。弥生時代の遺構は大小2つの環濠があり、大きい環濠内に住居、小さい環濠内に高床倉庫を建てました
続きます。↓
住居跡は100軒以上発見。大きな集落だったと考えられます。お墓は甕棺墓と箱式石棺墓があり、貴重な遺物を副葬したお墓もあります。昭和48年、宅地造成中に発見された遺跡です
とのこと。
環濠。↓
説明書きによりますと↓
環濠。高床倉庫群を取り囲む
とあって、その高床倉庫がここに。ということは、大小2つの環濠のうち、こちらは小さい方の環濠ということになります。
そこから橋を渡った先に↓
復元住居、竪穴式住居の跡。こちらが大きい方の環濠ということ。↓
説明書きには↓
竪穴住居。野方のムラは溝で囲まれた環濠集落ですが、食糧などを保管した倉庫群は別の環濠で区画されていました。弥生人の住まいは地面を掘り窪めて屋根をかけただけの竪穴住居に住んでいたと考えられますが、野方遺跡の発掘では、小さな穴が並んで見つかったことから、壁があったと考えられます
写真が添えられていて↓
そちらにも説明文が。↓
弥生人の暮らしぶりを体験できるように2棟の竪穴住居を復元していたものですが、平成6年に焼失
悲しみ爆発。残念なことです。そしてすぐそばのこの立派な建物が
【野方遺跡住居跡展示館】である。↓
入り口に説明書きが掲示されていたので↓
参照します。↓
野方遺跡は弥生時代に伊都国のあった糸島平野と奴国のあった福岡平野の中間に広がる早良平野の西端に位置。この周辺は西側の叶岳山麓に形成された扇状地の上に立地、いくつもの低い細長い丘陵が東側の平野部にのびています
続きます。↓
弥生時代に環濠とよばれる2つの溝が掘られ、大きい方は長径100m前後の楕円形。その中に竪穴住居が作られました。小さい溝は一辺25から30m。東側に出入り口があり高床倉庫を設けていました
それから【野方遺跡】の航空写真。位置関係が分かりやすいです。↓
ではいざ入館。ちなみに無料!↓
館内は思った以上に広大なスペースがあって、住居跡が2ヶ所展示してありました。見応えあり。
しかし!展示物といくつかの説明書きを撮った限りに、私の写真フォルダは途切れるのである。
というのも、館内スタッフの方による軽妙なトーク、そして知識溢れる福岡史跡話に花が咲いて
すっかり写真どころではなくなっちゃって。そういうわけで、
そろそろ帰ろうかと退館すると外は雨。桜はチル。チル。
最後に、館内の説明書きをざっとまとめて参照してから、見学を終わりたいと思います。↓
ここで発見された土器は弥生土器と土師器の2種。野方遺跡では山陰や瀬戸内地域の特徴を持つ土器も見つかっており、これらの地域との交流を知ることができます。野方遺跡から出土した鉄器は種類豊富
続きます。↓
野方遺跡は標高341mの叶岳の東麓に広がる集落遺跡。集落の北西には平たい石を直方体に組んだ箱式石棺が発見。中国製の鏡や装身具、貴重品が副葬されていました。地域の有力な集落だったと考えられます
ご清聴ありがとうございました。
【野方遺跡】
福岡市西区野方11