ヒーローはわりと旅に出たがりがち【岩見重太郎生誕之地】
天気の良い日でしたので↓
ラーメン屋を目指して、私は福岡市東区の名島地区を徘徊していたのでした。
そしたら通り沿いの広場に↓
石碑を見つけたのであった。こんにちは。↓
この小さな細い通りは『岩見重太郎通り』というらしいんですが↓
「岩見重太郎」って。ダレ?どなた?
通りに名前がつくくらいだから、ここ名島シティにとって重要な人物であることは確かだけど。
とりあえず広場(お観音様広場)に入って、石碑に近づいてみることにしました。↓
ほぅ。どうやらここは、重太郎が生まれた生誕の地らしいです。
そしてそばにある案内板を読んでみると、この重太郎なる人物、とんでもない漢だったんですけど!!まじでやばい。もうめちゃくちゃ強い。バリ強い。↓
全国各地を渡り歩き、色んなものと戦いまくりで勝ちまくり。数多の武勇伝を残す伝説の剣豪。
ああ名島でやばい奴に出会ってしまった。そんな重太郎の生い立ちはといいますと、↓
名島城城主であった「小早川隆景」の剣術指南役であった「岩見重左衛門」の、次男として生を受けました
兄の名前は「重蔵」で妹は「お辻」。
この広場からすぐのところには、名島団地(三の丸団地)が広がっていて、その名の通りそこはもともと名島城の「三の丸跡」。↓
その三の丸下に内堀があって、内堀の向かいに家臣の屋敷があったらしく、その屋敷のどれかが重太郎の生家ということみたい。
お話は続きます。↓
重太郎の父「重左衛門」は、指南役を争うライバルであった広瀬軍蔵に鉄砲で闇討ちにあいます。
復讐に立ちあがった兄と妹もまた返り討ちにあってしまいました。そこで立ち上がったのが重太郎。怒りに燃えて仇討の旅に出るのであった。
そして旅の道中で現れる「狒々」「大蛇」「妖怪」らとの戦いに打ち勝ち、ついに岩重は天橋立で復讐を果たし本懐を遂げたのでしたまる
これが重太郎のストーリー。ところで岩見重太郎は実在の人物なの!?だいたい妖怪ってなに。↓
これには諸説あるようで、「実在した派」のお話では↓
「岩見重太郎」は仇討ののち「薄田兼相(すすきだかねすけ)」と改名。豊臣家に仕え、のち大坂夏の陣にて討死しました
ということらしいです。→薄田兼相(wikipedia参照!)
真偽はさて置き。岩見重太郎によるこの勧善懲悪の仇討物語は、どの時代にも人々の琴線に触れてきたといいます。
時を越え語り継がれていくうちに、お話自体もモリモリ盛られ、そして伝説へ。といったところでしょう。
さて、広場内には他にも石碑やお堂があって↓
まず、こちらの大きな石碑。↓
そばの案内板には『龕塔碑』と書かれています。「がんとうひ」と読むこちらは↓
龕塔とは、断崖や大岩を彫って作られた仏像を納める厨子(ずし)のことで、後に供養塔や墓碑などに用いられた。(東区市政だよりweb版より)※リンク切れ
明治維新後の「神宮寺」の廃寺によってこの広場が荒廃しないよう、にという目的で建てられた【神宮寺跡の碑】。↓
こちらのお堂には↓
「観音様」。
そばには石碑がずらっと並んでいて↓
これらの石碑は「神宮寺」歴代の高僧を葬る墳墓なのだそうです。(東区市政だよりweb版より)※リンク切れ
この小さな広場に、歴史がぱんぱんに詰め込まれていました。もうお腹いっぱいですよ。
とか言ってるけど、本当はお腹空いてるんです。もともとラーメン屋探してたんだから!!終わり。
【岩見重太郎生誕之地】
福岡市東区名島3丁目14-21