須恵器と須恵焼は別のモノ【須惠町立久我記念美術館】

前回の続きです。↓

前回はといいますと、【須惠町立歴史民俗資料館】を訪ね、須恵町がかつて眼科患者で宿場町が出来るほどの眼医療先進地区だったことを知りました。

そして資料館での見学を終えた私は

敷地の左からのびる「ささやきの小径」を散策してみようと心に決めたのであった。こんにちは。

『須惠町立歴史民俗資料館』そばから周囲を眺めてみると、結構な高台にあることが分かります。では出発です。

なんでも、この道を進んでいくと【久我記念美術館】に辿り着くとのこと。楽しみ!↓

ほんのすぐのところに『町立皿山公園』入り口があって↓

こちらはつつじが有名なんだそうです。↓

鳥のさえずりとそよ風が心地よくて

坂を下り終えたところに

説明書きが。↓

読んでみるとこんな具合。↓

史跡福岡藩磁器御用窯跡。本窯、新窯、試験窯の3基の窯が現存。福岡藩寺社奉行所属の新藤安平が須恵焼の創始者。明治時代には須恵陶器会社が立ちあがり、金錆焼が焼かれました。久我記念館ではすぐれた名品を展示しています

立ち入ることはできないみたい。↓

雰囲気だけお届けしております。↓

そのまま小径を先へと進み↓

再び急な坂道を上っていくと↓

森の中にポツンと↓

美術館。【久我記念美術館】。↓

2時間ドラマに出てきそうな雰囲気の、森の洋館。↓

ぐるっと周って正面玄関へ。それでは入館します。入館料は無料!↓

須恵町マップによりますと↓

ここ【久我記念館】は↓

洋画家坂本繁二郎を発掘した人物として有名な故久我五千男氏の個人美術館を昭和60年に須恵町が受け継ぎました。須恵焼のコレクション約50点が常設展示。須恵町にゆかりのある作家の作品も

1階には受付とこちらの作品展示スペースがあって↓

2階に上ると↓

須恵焼の展示スペース。↓

説明書きがいくつかありますので↓

読みながら見学したいと思います。↓

須恵焼は江戸から明治にかけて須恵町で焼かれた焼き物(磁器)です。土ではなく石を細かく砕いて作った年度が原料。須恵器と須恵焼は別のモノです

そして↓

須恵焼は江戸時代中ごろに操業を開始し、明治まで約140年続きました。江戸時代には福岡藩の皿山役所が設置され、藩が使用するための焼き物を焼きました

別の説明書きには↓

こんなお話。↓

須恵焼は藩士の新藤安平が始めました。安平の死後、息子が初代皿山奉行に就任し、須恵皿山役所が設置され、須恵焼は黒田藩の窯となりました

ですが↓

幕藩体制の崩壊により皿山役所は廃止となり、民間に払い下げとなりました。のち窯場は継続し、須恵陶器会社が誕生。金錆染付という特色ある製品が焼かれました

須恵焼金錆釉掛分大花瓶。↓

頭の中が須恵焼だらけです。これでもかというくらい須恵焼について勉強できました。

一番良かったのは、須恵器と須恵焼は全く別のモノだと分かったこと。私の偏差値がメキメキあがりました!終わり。


【須恵町立美術センター 久我記念館】

福岡県糟屋郡須惠町大字須惠77-1