大村三十七士よ【羽根戸遺跡】【松林飯山出生地の碑】

先日、福岡市西区にある【野方遺跡】を訪ねたお話をしたわけですが、↓

そのきっかけは、福岡市西区飯盛の交差点だったんです。結構昔に【飯盛神社】を訪ねる道すがら、

ここに案内が出ているのを発見。さっそく近くへ寄って見てみたら↓

左へ進むと『金武古墳群』、右へ進むと【野方遺跡】と記してありました。

【飯盛神社】訪問からわりとすぐの時期に、通りを左へ曲がって『金武古墳群』を訪ね、↓

さらにしばらく後の先日、今度は通りを右へ曲がって【野方遺跡】を訪ねたというわけです。↓

こうして右方面も左方面も訪ね終えて、ああ一安心!とはいかないんですよ!?なんと案内は直線方面にものびているのだ!!

だから今回はそのお話をしたいです。ちなみに、畑のみんなは玉ねぎ堀りの真っ最中です。こんにちは。

さて直線方面の案内には【羽根戸遺跡】と記してあり↓

さっそく飯盛の交差点を真っ直ぐ進んでいくと、

最終的には行き止まりで↓

そこには案内が出ており、右へ行くべし!と云うている。

だから右へ進んでいると、すぐのところで今度は左へ曲がれとか云う。

はいはいその通りにしましたよ。したんですが!!

なんとそれっきりに案内はなくなってしまったんです。不安しかありません。

でもいつかきっと辿り着くから、と落ち込む気持ちを奮い立たせ、そのまま進んでいくと、

そこから道はUターンを描くことに!!

つまりシンプルに考えると、UターンのUの内側が【羽根戸遺跡】だったんじゃないだろうか。そこで、

帰宅するや緊急でグーグルマップを確認してみると、やっぱりその推測がファイナルアンサーみたい。

でも訪問時はそんなこと分かりませんから。

 

見つからない案内にイラついて、800回くらい「なんなのいったい」とか呟いて、

訪ねたような訪ねてないような、もやっとした気分で帰途についていると、

通り沿いに案内板と石碑が立っているのを発見。

さっそくそばへ寄って↓

説明書きを読んでみることにしたんです。↓

松林飯山出生の地。明治維新夜明けに大村藩勤王派の首領として活躍。天保10年(1835)出生。飯盛山にちなみ飯山と号した。神童とよばれた

せっかくなら松林飯盛山で良かった気も。西島洋介山みたい。いや、そこは変えときたい的な!?続きます。↓

12歳のとき大村純熈藩主に見初められ江戸に上り19歳で昌平黌の助教に任命

もう少し続きます。↓

21歳で大村に戻り、藩校五教館の学頭に就任。そして勤王の道へ

とありました。そののちの出来事をwikipedia松林飯山の項から参照すると↓

勤王派を結成。これが後に大村三十七士と呼ばれる同盟に発展。慶応3年(1867)自宅近くで襲われ絶命。佐幕派の犯行とされ大粛清が行われた(大村騒動)

とのこと。石碑はこんな感じ。↓

裏からも見てみたよ。↓

それからそのまま小路を抜けて、大きな通りへ。

するとちょうど『西部運動公園』すぐそばに出てきたので

ちょっとお茶でも飲んで帰りますか。疲れたちゃったから。

お話は次回に続きます。よろしくお願いします。↓


【PR】維新の魁 筑前勤王党

【羽根戸遺跡】

福岡市西区羽根戸479

【松林飯山出生地の碑】

福岡市西区羽根戸373