勝つ立つ寺という火の玉ストレート【勝立寺】

先日、福岡市中央区の天神地区に【勝立寺】を訪ねましたので、そのお話です。

ちなみになんですが、以前、福岡市博多区の中呉服町地区に『妙典寺』(↓)を訪ねた際

境内にあったお寺の説明書きの中に、【勝立寺】にまつわるお話があったんです。それはこんな具合。↓

慶長8年(1603)、当寺(妙典寺)において京都妙覚寺の僧「日忠」とキリスト教の修道士らとの宗教に関する問答が行われました。問答に勝利して日忠が建てた寺が、中央区にある勝立寺です

それではさっそく【勝立寺】へ。(↓下の写真は妙典寺)

福岡市中央区天神の明治通り沿い。そこに【勝立寺】の門があって、離れて見てみると、まるで建物に両側から挟まれているようです。

ではさっそく向かいましょう。まずはこちらではなくって、お寺の正面の方へ。明治通りから日銀通りを通って

先へ少し進むと、通りの右手に【勝立寺】。↓

正面から見るとこんな具合。立派なお寺ですね。

ん?おや、山門は閉まっているようです。仕方がありません。隙間からちょっとだけ失礼して、境内の様子を見てみます。↓

「山門不幸」。これはどういう意味なんだろう?↓

扁額には「正興山」とあって

奥の正面に見えるのが本堂(祖師堂)。↓

辺りを見廻してみても、特に説明書きや案内板など見当たりませんでした。そこで↓

まずwikipedia『勝立寺』から参照してみたいと思います。↓

日蓮宗派。山号は正興山。境内には陸軍大将明石元二郎(付近の大名町出身)の墓所、西南戦争の征討軍本営の碑がある。慶長8年(1602)京都妙覚寺の唯心院日忠がキリシタン宣教師旧澤、安都との法論に勝利。福岡藩主黒田長政から下賜された土地に名島城本丸の小早川隆景が建立した書院を移築して創建されました

つまりこういうことでしょう(意訳)→うちら論破しましたよと。しちゃいましたよと。完全論破だわ。だからお寺に名づけますよと。その名もずばり「勝った」から「立てた」「寺」ですよと。

これもう火の玉ストレートのド直球ネーム。相手にしたら全打席デッドボール。いわば完膚なきまでの勝利宣言。

 

それはさておきまして、参照の中に出てきた『名島城本丸の書院を移築』のお話も大変興味深いですね(※名島城のお話はこちらで!↓)。色々知りたくなってきましたので

インターネットからあれこれ追加で参照してみると↓

旧本山は京都妙覚寺。日蓮聖人を祀る大きな『祖師堂』には日本一大きい坐像の日蓮聖人像(木造)が祀られている。冬至の日にはかぼちゃ大祭が開かれ、かぼちゃ料理が振舞われる

といったお話なんかがちらほらありました。また【勝立寺】にお墓があるという『明石元二郎』についてもwikipediaで調べてみると

福岡藩士の次男として福岡城下の大名町に生まれる。1902年(明治35年)にロシア帝国公使館付陸軍武官に転任。当時からロシア国内の情報を収集し、ロシアの反政府分子との接触を試みる工作活動が行われていた。ロシア公使館に着任後、日英同盟に基づいた情報協力により、イギリス秘密情報部のシドニー・ライリーと友人に。ライリーは1903年(明治36年)からロシア軍司令部の信頼を得て、ロシア軍の動向に関する情報や、旅順要塞の図面などをイギリスおよび日本にもたらしている

めちゃくちゃ面白いお話。続きます。↓

日露戦争が開戦すると明石はロシア支配下にある国や地域の反ロシア運動を支援し、様々な人物と接触。ロシア国内の政情不安を画策して、日本の勝利に貢献することを意図。第7代台湾総督に就任、陸軍大将に進級する。公務のため本土へ渡航する洋上で病を患て郷里の福岡で死去。満55歳。生誕地付近の勝立寺に遺髪と爪を収めた墓がある

とのこと。

さて山門すぐ右隣には『毘沙門天王』があって↓

さらに右へ進むと、そこには石碑『征討総督有栖川宮熾仁親王仮本営址』。

下は地下駐車場で

上には鐘楼。なんだかすごい。まるで要塞のよう。↓

ちなみに、こちらの山門、基本的にいつも閉じられているのか、今回だけたまたまなんですか!?

もう一つの門も気になります。そう、最初に見かけた明治通り沿いの門。あの門はなんなのだろう。

近くで見ると、何語だかは分かりませんが、なにやら文字が記されていました。

私が勝手に推測するに、おそらく「完全論破」とか「敗北が知りたい」とか、そんな意味かな。冗談で・す・よ。分かりません。

その門の上にはまたもや!?毘沙門天!?↓

っていうかふと思ったんですけど。勝負には勝者と敗者がいるわけで、論戦相手となったキリスト教のイルマン(修道士)は、勝負に負けた後いったいどうなったのか!?

そっちはそっちで気にはなる。そもそも勝ち負けの基準はなんだったんだろう。


【勝立寺】

福岡市中央区天神4丁目1-5