鯰石を見て物思いにふける我【鯰石】
福岡県筑紫野市の二日市地区にある『西鉄紫駅』から「筑紫野筑穂線」という通りに沿って歩いていきますよ。そして曙町のバス停から↓
住宅地へと入っていく私です。どうもこんにちは。
途中に紫児童公園があったり↓
うねった道を進んでいくと↓
巨石があって↓
ここは正確に言うと、二日市北という場所。↓
そしてこちらに見えるのが、今回の目的である【鯰石】。なんかギュインってなってるね。↓
そのまま崖の上を見上げてみると、あそこにも岩があって、なんとあれも【鯰石】らしい。↓
そして、こっちの細い通りのすぐ先に見えるのも【鯰石】とのこと。以上3点がみんな【鯰石】である。↓
というかね、この3つはもともと1つだったらしいんです。
案内板が崖のところにあるので、読んでみたいと思います。↓
この巨石には言い伝えがあります。かつてこの辺りは葦が生い茂る沼でした。ある時に菅原道真公が通りかかりました。
道真公はいったいなぜここに!?で、話は続きます。↓
大鯰に道を塞がれたので、腰の刀で斬ったら、鯰は頭・胴体・尾の3つに分かれて飛び散り、石になったのです。
とのこと。
3つに分かれたんだから、2回斬ったってことでしょう。それが全部石になったと。
でね、wikipediaの大鯰の項を参照してみますと↓
大鯰というのは、昔は地震の原因だといわれていて、地中で大暴れする鯰を抑え込むのが要石という石。
そういう言い伝えが各地にあって、日本書紀にもそういった記述があるのだそう。ここ二日市の大鯰はというと、自身が自身を抑え込む石になっちゃったっていうね、地震だけに!!
ちなみに、神功皇后のお話では、鯰は水先案内の役割だったんだよなあ。(→ナマズと神楽と不動明王【那珂川伏見神社】)
さて、閑話休題、なんですけど。この沼地で道真公はいったいなにをしていたのだろうか。
菅原道真公というのは、みなさんもご存じの通りで、都で謀略にあい、涙涙の左遷でこの大宰府の地へと下ってきたわけです。
そして亡くなるまでの2年間を【榎社】にて困窮の中、細々と暮らしたと伝えられています。(→都府樓纔看瓦色 観音寺只聴鐘聲【榎社】)
その道真公が、元気に沼地で大鯰を3等分にカットしている!!なんでよ!?
ではまず、位置関係をいまいちど確認しておきます。↓
で、私は推測したい。聞いてください。これは天拝山への道すがらの出来事ではなかろうか。
道真公は無実を訴え天に拝するために、何度も天拝山を登ったとされています。何度も通ってたら、たまにはコースを変えたくなって
今日はちょっと遠回りとか言ってたら、巨大鯰との遭遇!!すかさずカット!!ちなみに3等分!!みたいなね。
まあ全部私のデタラメなんだけどね。
【鯰石】
福岡県筑紫野市二日市北8-10