長崎街道(一部)を03【筑紫野歴史資料館(再)】
前回の続きです。↓
前回、長崎街道『原田宿』を飛び出して『山家宿』のある「山家」地区までやってきました。
今回さっそく『山家宿』を散策しようと思うんですが、その前に。ちょっと待って!
気分を変えて、街道辿りはお休みします。その代わり
以前も訪ねたことのある【筑紫野市歴史博物館】(↓)を再訪問しましたので
そのお話をしたい。です。
というのも、こちらの博物館は『長崎街道』そしてその中でも特に『原田宿』『山家宿』にまつわる展示が充実しているんです。そのことは前回の訪問時にチェック済!
つまり、今回のように『長崎街道』を辿るにあたって、まさにうってつけの学びの場なのだ。では始めます。こんにちは。
さっそく『長崎街道』のパネルがありましたので↓
読んでみると↓
江戸時代、江戸と長崎を結んだ主要な道路のうち、小倉長崎間をいいます。鎖国体制のもと、長崎には幕府が直接管理する貿易港が置かれていました。そのため長崎奉行、オランダ使節、参勤交代の大名など様々な人々が往来する九州第一の街道。長さ57里1町20間半(約228キロ)の街道沿いに25の宿場が置かれ、なかでも福岡藩内の黒崎・木屋瀬・飯塚・内野・山家・原田は「筑前六宿」として栄えました
こちらが街道の地図で↓
この中のこちらが筑前六宿。↓
福岡藩内を通行するときの、各宿駅での応対の仕方を定めた「諸通執行定」。↓
原田宿最後の関番「山崎央」。↓
原田宿関番所の様子を描いた絵図。↓
拡大したものがこちら。
平伏している人物の姿が!関番所は恐ろしい雰囲気!ああ怖い。
山家宿の御茶屋に関するお話。↓
読んでみると↓
御茶屋は福岡藩内の宿場に置かれた藩主の別邸。参勤交代の諸大名や長崎奉行、オランダ使節などの宿泊所としても使われました。建物は明治維新直後に解体されました
原田宿初代代官だった「小河内蔵允之」。↓
前回記事でもご紹介済ですが、参照しますと↓
天正3年(1575)兵庫県生まれ。戦の功績で、筑前国に領地を与えられました。65歳で亡くなり博多聖福寺に眠る
こちらは桐山丹波。山家宿の初代代官。↓
説明書きによれば↓
黒田25騎の一人で兵庫県生まれ。黒田孝高に従い、以降3代の福岡藩主に仕えました。山家宿代官になってからは、家臣の志方彦太夫と宿場の建設や冷水峠道の開設にあたりました。71歳で亡くなり、墓は山家宿の裏山に
とのこと。
原田宿の街並み。↓
はらふと餅屋の様子。↓
山家宿の街並み。↓
館内には他にも、当時の日記だとか、原田宿で出された辞令や表彰状(いずれも複製)など、面白グッズが多数展示されていました。
まるで当時の宿場町の様子が目に浮かぶよう。現在の風景が遠い古の記録と交じり合っていく新感覚未体験ゾーンに突入中。
次回からの山家宿辿りにも力が入りますね!!良かったですね!!続く。↓
【筑紫野市歴史博物館】
福岡県筑紫野市二日市南1丁目9-1